日本歴史地名大系 「古高村」の解説 古高村ふるたかむら 滋賀県:守山市古高村[現在地名]守山市古高町横江(よこえ)村の南東。北方を志那(しな)街道が通る。往時には比叡山三千坊の一部だったが、織田信長の山門焼打ちの際に焼亡し、佐々木氏の末孫三上(のち古高)大和守が再び開墾したという。条里地割とともに八ノ坪の条里制数詞坪地名の遺称も残る。下長(しもなが)遺跡からは古墳時代前期とみられる木製の和琴が出土した。第一次六角征伐の最中の長享二年(一四八八)一二月には「江州古高」に土岐氏が陣を張っていた(「実隆公記」同月二一日条)。元亀二年(一五七一)四月の印岐志呂(いきしろ)神社(現草津市)の祭礼馬上帳(高田文書)によれば、古高などから二貫一〇〇文が納められている。 古高村ふつたかむら 茨城県:行方郡潮来町古高村[現在地名]潮来町延方(のぶかた)東は北浦に面し、北は水原(みずはら)村、西は辻(つじ)村。「常陸国風土記」に「痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久(いたく)の郷と謂ひ、臨(ふつに)斬ると言ひし所は、今、布都奈(ふつな)の村と謂ひ」とある「布都奈の村」の遺称地とされる。古くから開かれた地で、延方村の親村と伝えられ、「常陸誌料郡郷考」は「香取社海夫注文のふなかたの津、ふつたかを誤れるにや」と記している。中世は島崎氏の支配下に属したが、島崎氏滅亡後は佐竹氏領となった。慶長七年(一六〇二)佐竹氏秋田移封後は水戸藩領となり、寛永一八年(一六四一)の検地帳写(須田家文書)に村名がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報