勝部村(読み)かつべむら

日本歴史地名大系 「勝部村」の解説

勝部村
かつべむら

[現在地名]守山市勝部町・梅田町うめだちよう

今宿いまじゆく村の南東に位置。村名は用明天皇のとき物部守屋と中臣勝海が開墾した物部郷勝海村に由来するとされる。また古代に勝部すぐりべが居住したことによるとも、鎮守勝部神社にちなむともいう。条里地割とともに八ノ坪・北十三の条里制数詞坪地名の遺称も残り、昭和初期には「南十三」の字名もあったという。元応元年(一三一九)の「日吉社領注進記」に勝部日武末保がみえる。同保は保安年間(一一二〇―二四、あるいは干支から保延五年とも考えられる)以降坂本日吉社の十禅師じゆうぜんじ宮御油および二宮二季講料所に充てられており、権禰宜行世の知行であった。


勝部村
かつべむら

[現在地名]豊中市勝部二丁目・南空港みなみくうこう町など

原田はらだ村の北にあり、西は川辺かわべ岩屋いわや(現兵庫県伊丹市)。豊中台地下の低地に村域が展開し、集落(現勝部二丁目)千里せんり川東岸にある。原田七郷の一村(元禄郷帳)であるが、慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図では浅田あさだ(麻田)村など六ヵ村、高三千六六三石余のなかに「勝辺村」が出ている。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では高二五九石余、うち一三六石余は旗本畠山領(幕末まで継続)、九一石余は大坂城代(武蔵岩槻藩)阿部正次領、三二石余は旗本船越領(この三二石余は以後の郷村帳にみえず不審)。阿部正次領は慶安元年(一六四八)より大坂定番保科正貞領(のち上総飯野藩領)に替わり、享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調および一村別旧領主并石高では畠山領と飯野藩領(いずれも高は同前)


勝部村
かつべむら

[現在地名]津山市勝部

南は野介代のけだ村と志戸部しとべ村で、東南条とうなんじよう郡に属する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方四五六石余・畑方七二石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では六九一石余、うち改出高一一二石余・開高五〇石。上分と下分に分村しており、文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では上分三九四石余・下分二九七石余。天保九年(一八三八)津山藩領郡村記録では上分二一戸・八七人、下分二五戸・一二一人、嘉永五年(一八五二)御仕置五人組帳(津山郷土博物館蔵)では上分二一戸・七八人、下分二六戸・一二六人。天保八年の村絵図(同館蔵)によると、人家は村全体に散在している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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