今宿村(読み)いまじゆくむら

日本歴史地名大系 「今宿村」の解説

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]鳩山町今宿

赤沼あかぬま村の南、越辺おつぺ川の左岸に位置し、同川対岸南方は入間いるま北浅羽きたあさば(現坂戸市)・同郡苦林にがばやし(現毛呂山町)、西は同郡小用こよう村。古くは赤沼村のうちであったが、元禄郷帳作成時までに同村より分村した(風土記稿)。中世には鎌倉街道(上道)が通り、地名は対岸苦林村の「古宿」に対する称という。この道は近世にも武蔵八王子などと上州方面とを結ぶ往還として利用されたが、「風土記稿」には「民家四十連住シテ宿駅ニ似タレト馬次ノ所ニモアラス」「少ノ河岸場アリテ近郷ノ材木薪等ヲ爰ニテ筏トシ江戸ヘ出セルヲモテ土地賑ヘリ」とみえる。北浅羽村と石坂いしざか村の間、および赤沼村内に飛地があった(同書)。元禄郷帳によると高一三〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本日比野領。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]大石田町今宿

大石田新おおいしだしん町の南東、朧気おぼろけ川対岸に位置し、東流してきた五十沢いさざわ川が当地で最上川に注ぐ。南に大石田から羽州街道の土生田とちゆうだ(現村山市)追分に出る「へぐり道」がある。元和八年(一六二二)最上氏改易後は山形藩領。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高三四〇石余。正保郷帳では田高二九八石余・畑高四一石余。寛文八年(一六六八)幕府領。同一二年の検地では本田畑屋敷高三五〇石余・新田畑高五四石余(荒井文書)。天和二年(一六八二)本多利長領。元禄一二年(一六九九)幕府領(最上記)。安政二年(一八五五)からは松前藩預地の幕府領(「御用覚帳」横尾文書)

宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると高四五四石余、家数三三・人数二〇〇。

今宿村
いましゆくむら

[現在地名]川崎町今宿

郡西端山間部に位置し、中央を東流するきた川に沿って笹谷ささや街道が通る。同街道は西端の笹谷峠(標高九〇六メートル)を越え、出羽国村山むらやま(現山形県)へ入った。東から南にかけては前川まえかわ村、北東は川内かわうち村、北西は名取郡馬場ばば(現秋保町)。東より野上のじよう古関ふるせき・笹谷などの集落があり、野上・笹谷は笹谷街道の宿駅であった。一六世紀前半のものと思われる小野・砂金の日記(留守文書)に「いましゆく、一万二千六百かり、はたけ、百九十四くわん地」とある。天文一三年(一五四四)八月一七日の留守景宗証状(下飯坂文書)に「ほんかう(本郷)かハち(川内)役所之事、并せき所之事」とみえ、砂金摂津守(常久)に与えられているが、この「せき所」を字古関に比定する説もある。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]山崎町今宿須賀沢すかざわ

揖保いぼ川中流右岸、山崎城下の東隣に位置し、北は庄能しようのう村。同川両岸に枝村の出石いだいしがある。慶長八年(一六〇三)姫路藩主池田輝政は「今宿村」二〇二石余など計一千石を家臣の黒田四郎兵衛に与えた(「黒田定清家譜」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳では田方二〇五石余・畠方四七石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高二七二石余、田六町五反余・畑五町三反余、小物成銀六匁余(茶役五匁余・楮役六分余・漆役三分余)・桑役(真綿)一二〇匁余、家数一四・人数九七、牛八。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]武生市今宿町

府中町の南、日野川西岸にある。北陸街道沿いの宿場で南北に長い街村をなす。中世の大塩おおしお保内の一村で、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「大塩之内今宿村分」として高七一九・三石とある。同年の今宿村検地帳(福田家蔵)によると、名請人は三三人、持高三六五石余で村高の半分にすぎない。その他は近隣村からの越石で、温谷ぬくたに村二三人・一四二石余、北山きたやま(温谷村枝村)五人・一三石余、岩本いわもと(温谷村枝村)一六人・一〇七石余、国兼くにかね村五人・二五石余、西谷にしたに(国兼村枝村)八人・三六石余、その他いんない(現小松町)四郎丸しろうまる行松ゆきまつ塚原つかばらの各村の名請人に及ぶ。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]茅ヶ崎市今宿

相模川の自然堤防上にあり、東北は古相模川(現小出川)を隔てて浜之郷はまのごう村に対し、東は下町屋しもまちや村、南を東西に東海道が通り、その西端から北の萩園はぎその村へ八王子道が分れる。

正保国絵図に「今宿」とある。近世は幕府直轄領から宝暦二年(一七五二)旗本馬場領。同五年当村と茅ヶ崎村の南湖なんご馬入ばにゆう(現平塚市)三村の金主と質地を差押えようとする地主との間に争論が起こっている(「質地争論につき金主方訴状」県史七)。課役として天和三年(一六八三)大通行に際して村内の東海道五一二間分および松尾まつお村とともに馬入村新田のうち四五間分の掃除・普請を命ぜられた(「東海道宿村道場間数高書帳」大和市史四)ほか、相模川川除堤普請(宝暦一二年「相模川川除普請仕様帳」茅ヶ崎市史一)、相模川渡船定助郷(安政二年「馬入川船賃割増延期願」県史九)を勤めた。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]大垣市今宿・鶴見町つるみちよう

揖斐いび川右岸の低地、大垣輪中の東部に位置する。西は三塚みつづか村、北から東は加賀野かがの村。村内を美濃路が通る。村名の由来を「新撰美濃志」は「もとは三塚のうちなりしを、当所城主種田助之丞、塚といふ名を忌み嫌ひ信長公に申して今宿とあらたむ」と記す。また、中世の鎌倉街道の宿駅が置かれたことによるともいう(新修大垣市史)。「美濃明細記」は古城として、五〇〇貫を領した種田助之丞の今宿城を載せる。

今宿村
いましゆくむら

[現在地名]太田町三本扇さんぼんおうぎ 今宿

川口かわぐち川扇状地の扇端部にある。北は宮内みやうち村、南は本堂城廻ほんどうしろまわり村(現千畑せんはた村)に接する。慶長一九年(一六一四)頃と思われる本堂城廻絵図写(秋田県立博物館蔵)に本堂城から今宿町への道路が記される。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二五〇石で新田とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高三六四石三斗五升四合、そのうち本田当高二〇二石余、本田並当高八四石余、新田当高七八石余とあり、正保の絵図による新田村との記載はほかの郡村の例に照らして誤記と思われる。享保期の「六郡郡邑記」に家数四軒とあり、支郷は島村・谷地中やちなか村・立石たていし村・吉沢よしさわ村・谷地やち村・つつみ村・荒屋敷あらやしき村・一野坪村・川原かわら村・上川原かみかわら村・中川原村の一一村、家数は三八軒とある。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]志賀町今宿

和邇わに川下流にあり、南は小野おの村、西は和邇中村。「本福寺跡書」によれば毎月一八日の念仏御頭のうち八月は「マノイマシユク」の慶了衛門五郎兵衛入道がつとめている。「本福寺門徒記」に「真野今宿道場」とみえる。元亀二年(一五七一)四月吉日の印岐志呂いきしろ神社(現草津市)の祭礼馬上帳(高田文書)に今宿とある。寛永石高帳では高八七二石余、ほかに五升とあり幕府領。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]由比町今宿

東海道に沿って町屋原まちやばら村の西にあり、南は駿河湾。永禄一二年(一五六九)四月一八日の武田信玄判物写(「諸家文書纂」所収万沢家文書)に「由比今宿」とみえ、前年末の武田氏の駿河侵攻以前は朝比奈備中守の知行地であった当宿の六〇貫文の地が、この日万沢遠江守に与えられた。天正七年(一五七九)一一月二一日には万沢主税助に安堵されている(「武田勝頼判物写」同文書)

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]守山市今宿町

焔魔堂えんまどう村の北に位置、北を西流するさかい川を境に守山村に対する。守山宿の加宿で、中山道沿いに街村を形成。一里塚が残る。村名の初見は元亀三年(一五七二)守山天満宮西之座の烏帽子御成帳という。中世には志那しな街道と東海道に出る道(通称伊勢道)との分岐点に位置したが、中山道の発達にしたがい吉身よしみ村とともに守山宿の加宿となった。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]結城市今宿

新宿しんじゆく村の東、古宿ふるじゆく新田の南に位置。南の糟礼かすれい村との境にかつては小鮒橋西南台地こふなばしせいなんだいち古墳があり、そのうちの一基は径二〇メートルの円墳で、ほかにも数基の丸塚があったという。また村内の墓地からは元徳二年(一三三〇)と延文二年(一三五七)の板碑が一基ずつ出土している。天正一八年(一五九〇)九月、豊臣秀吉が山川晴重に安堵した所領に「百拾五貫六百文 堀めくり下やま あやつ(山川修二文書)とある「下やま」は、村内の字下山しもやまである。山川やまかわ城の城廻り地域と一括して扱われているうえに、古くからの町場的要素をもった集落であったこと、字宿しゆくが残っていることなどから戦国時代の山川城下の中心をなしていた可能性が強い。

今宿村
いましゆくむら

[現在地名]雄物川町今宿

北流する雄物川の左右岸、東の村域は大曲おおまがりと湯沢を貫く街道沿いにあり、西の村域は中世のすえ館跡を含む地域。まみぶくろに縄文時代および続縄文の遺跡が分布、石棒・土師器・須恵器片を出土、また作の瀬さくのせからも土師器壺が発掘されている。

中世集落沼館ぬまだてに南接し、現今宿の東に小字名西にし在家ざいけがある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に村名があり、下一桁は不明だが二六〇石余と記される。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数一三八軒とあり、枝郷は向江村四軒、寛永一〇年(一六三三)開村の作野瀬さくのせ村は元禄二年(一六八九)亡村。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]甚目寺町西今宿にしいまじゆく

南は上萱津かみかやづ村、西は福田ふくた川を隔てて新居屋にいや村に接する。天正一一年(一五八三)正月二四日、織田信雄判物(生駒家文書)に当村の名がみえる。「尾張国地名考」に「草津かやづの宿は後世鎌倉の末に廃れて室町の始に此処に移る故に今宿と呼」とある。「徇行記」によれば、概高一千三三五石余のうち一千二二九石余が藩士二六人の給知。田は四三町五反二畝余、畑は四六町二反五畝余。「寛文覚書」に戸数一〇五、人数五四〇とある。「徇行記」は「他村ヘ田畝ヲ掟ル事ナシ、菜蔬ノ類ハ少シツヽ下小田井市ヘウリ出ストナリ(中略)村中ニ西国侯伯ノ駅程アリ、是ハ神守駅ヨリ清須駅ヘ通ス、佐屋街道ヲヌケテ西条村・甚目寺村・今宿村・上条村・土田村ノ五村ヲ歴テ清須駅ヘ出ル、又同駅ヨリ小牧駅ヘ通ス、是ハ朝日村・下ノ郷村・中ノ郷村・薬師寺村・藤島村ヘカヽリ夫ヨリ十三塚トイヘル所ヨリ木津古渠ノ辺リヲ経テ小牧村ヘ出ルナリ、是ヲ土人藤堂街道ト唱ヘリ、古ヘ勢州安濃津ノ大守木曾路通行ノ時ハ往来アリシナリ、於今山田奉行ナトハ通行アリ、何レモ小径故ニ侯伯ノ往来ハナリカタシ、其家臣ハタマタマ通行スル者アルヨシ、昔時清須城府ノ比ハ此アタリ駅路ナル乎」とし、鎌倉期以来清須きよす全盛期の一宿駅の面影を残す。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]前橋市鶴光路町つるこうじまち

東は端気はけ川で房丸ぼうまる村・徳丸とくまる村・力丸りきまる村に対し、南は下阿内しもあうち村、西は善光寺ぜんこうじ村、北は阿内宿あうちしゆく村。「郡村誌」によれば、もと新堀にいぼり村と一村であったが、寛文八年(一六六八)今宿村・善光寺村・下阿内村が分れたという。元禄二年(一六八九)の検地帳(前橋市役所蔵)によれば、田八町七反余・畑七町一反余。元禄郷帳に高一九六石四斗余とある。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]神林村今宿

ひやつ川と笛吹ふえふき川の間にあり、北は高御堂たかみどう村、南は九日市ここのかいち村に接する。寛文六年(一六六六)の検地帳(近藤仁右衛門氏蔵)が初見で高一九〇石一斗余。元禄一三年(一七〇〇)の岩船蒲原郡絵図(新発田市立図書館蔵)には村高一七三石、九日市村枝郷とあり、岩船潟開発により成立した村と考えられる。村上藩領に属した。宝永七年(一七一〇)小口川組村村覚(伴田幸一郎氏蔵)には本田一四町一反余・新田七畝余・畑六反五畝余、家数一二・人数七七、馬六。

今宿村
いまじゆくむら

[現在地名]土山町大野おおの

大野村の西にあり、南を野洲やす川が西流し、北は布引ぬのびき丘陵に続く。西端を南北にいな川が流れ、野洲川に注ぐ。集落は東海道に沿って街村をなす。慶長五年(一六〇〇)幕府領となり、元禄郷帳では宮川藩領、天明村高帳では丹後宮津藩領。寛永石高帳では高一七九石余、慶安二年書上による内訳は田九二石余・畑屋敷二七石余・永荒山川成五九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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