吉富庄(読み)よしとみのしよう

日本歴史地名大系 「吉富庄」の解説

吉富庄
よしとみのしよう

桑田郡有頭うつ(和名抄)に成立した荘園で、初め宇都うつ(有頭・宇頭・宇津とも記す)と称したが、平安後期藤原成親がこれを領した時、旧来の宇都庄に隣接する神吉かみよし八代やしろ熊田くまた志摩しま刑部おさかべの五郷を加えて一円の荘園とし、これを吉富庄と号した。のち吉富庄は神護じんご(現京都市右京区)領となるが、以後旧宇都庄を吉富本庄とよぶのに対し、加郷された地域を吉富新庄と称した。

有頭郷が荘園として史上に現れるのは、嘉保元年(一〇九四)二月日付の丹波国司庁宣(県治明氏所蔵文書)である。

<資料は省略されています>

本文書については偽文書とする説(平安遺文)もあるが、同郷と源氏の因縁や、当時諸国の百姓が義家に田畠を寄進することが多く寛治五年(一〇九一)にはそれを禁止していることなどから考えて、一概に否定することもできない。その後源義朝の所領であったことは確実だが、平治の乱後没官領として平氏の所領となり、平氏との姻戚関係から権大納言藤原成親が伝領した。成親は前述したように本来の宇都庄に五郷を加えて一円の荘園とし、その本家職を後白河院の御願法華堂(のちの長講堂、跡地は現京都市下京区)に寄進した。

なお宇都庄(本庄)は江戸時代の浮井うけい村・粟生谷おうだん村・明石あけし村・中地ちゆうじ村・栃本とちもと村・弓槻ゆづき村・柏原かしばら村の七村に比定され、新加郷の神吉郷は宇都庄の西南にあたり、江戸時代の神吉上かみよしかみ・神吉下・神吉和田かみよしわだ(現船井郡八木町)の三ヵ村で、主水司の供御所である(「吾妻鏡」文治二年三月四日条)。八代郷は宇都庄の北、周山しゆうざん矢代中やしろなか村を中心とする地域。熊田郷はその東方、周山の上熊田かみくまた・中熊田・下熊田の三ヵ村を中心にした地域。


吉富庄
よしとみのしよう

現彦根市の北部から坂田郡米原町にかけての、松原まつばら内湖、筑摩つくま(入江内湖)の東側に所在したとみられる庄園。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)に「近江国吉富」とみえ、八条女院庁領であった。これより先の永暦年中(一一六〇―六一)、後白河院が京都新熊野いまくまの社を創建した際に同社に寄進され、養和元年(一一八一)一二月八日に勅院事・臨時国役などが免除されている(「後白河院庁下文案」新熊野神社文書)

藤原定家が当庄の領家職を有しており、「明月記」に関連記事が頻出する。同書によりおもな動きを摘記すると以下のとおりである。正治二年(一二〇〇)八月二日、院御祈用途として布が課されている。建仁二年(一二〇二)六月二一日大津に着いた定家は、昨夜来の大雨で洪水となっていたため吉富の卜井丸を召出して船に乗り、戸津とづ(現大津市)へ赴いた。元久元年(一二〇四)三月一一日、吉富庄が卿三位(藤原宗頼室兼子)の庄官により押取られた。縁なきものは存命の計を失うと定家は嘆き、二五日解状をもって八条院にその解決方を申入れた。同二年四月三日朝雅が謀書により当庄預所職を奪おうとしていることを知り、一四日定家は八条院にこのことを申入れた。許しがあったが、どうしてその事実を立証しようかと悩んでいる。建永元年(一二〇六)九月五日、定家は当庄庄官を院庁に召出して尋問すべきことを申請して勅許を得、七日尋問が行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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