日本歴史地名大系 「吉富庄」の解説
吉富庄
よしとみのしよう
桑田郡
有頭郷が荘園として史上に現れるのは、嘉保元年(一〇九四)二月日付の丹波国司庁宣(県治明氏所蔵文書)である。
本文書については偽文書とする説(平安遺文)もあるが、同郷と源氏の因縁や、当時諸国の百姓が義家に田畠を寄進することが多く寛治五年(一〇九一)にはそれを禁止していることなどから考えて、一概に否定することもできない。その後源義朝の所領であったことは確実だが、平治の乱後没官領として平氏の所領となり、平氏との姻戚関係から権大納言藤原成親が伝領した。成親は前述したように本来の宇都庄に五郷を加えて一円の荘園とし、その本家職を後白河院の御願法華堂(のちの長講堂、跡地は現京都市下京区)に寄進した。
なお宇都庄(本庄)は江戸時代の
吉富庄
よしとみのしよう
現彦根市の北部から坂田郡米原町にかけての、
藤原定家が当庄の領家職を有しており、「明月記」に関連記事が頻出する。同書によりおもな動きを摘記すると以下のとおりである。正治二年(一二〇〇)八月二日、院御祈用途として布が課されている。建仁二年(一二〇二)六月二一日大津に着いた定家は、昨夜来の大雨で洪水となっていたため吉富の卜井丸を召出して船に乗り、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報