吉富村(読み)よしどみむら

日本歴史地名大系 「吉富村」の解説

吉富村
よしどみむら

[現在地名]田主丸町中尾なかお

巨瀬こせ川左岸に位置する。屋敷地は自在丸じざいまる綾野あやの五名ごみよう猪口いのくち各村とかたまり、耕地山本やまもと郡境の「まがり曾根」の東側、耳納みのう山地北麓から巨瀬川左岸にかけて西郷八ヵ村(吉富村・指出村・自在丸村・猪口村・五名村・松崎村・浮地村・綾野村)と入組み混在する(上三郡絵図)。西郷八ヵ村は一村同様の扱いで、庄屋をはじめ村役人・五人組も入交じる様相を呈していた(嘉永元年「廻村書留」新有馬文庫)中世綾野庄のうちで、応永二年(一三九五)閏七月二五日の天満宮領筑後国所領注文(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)に不輸領として「綾野庄 同庄内明暹名 同庄内吉富名」とみえる。


吉富村
よしとみむら

[現在地名]柳川市吉富町

矢留やどみ村の東にあり、柳川城下沖端の田代おきのはたのたしろ町・片原かたはら町の南にあたる。山門やまと郡に属し、柳川藩領。吉留村とも表記され、地元では「よしどみ」ともよばれる。文禄四年(一五九五)の知行方目録に吉富村とみえ、高一八〇石余、「よしかた」分は矢留村と合せて二一石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別二五町五反余・分米三三二石余、村柄は上とある。元和七年(一六二一)の郡村帳には吉留村とあり、玄蕃高四一六石余・新田高二六石余。小物成は葭野年貢米二石余。貞享四年(一六八七)に終了する領内内検は、天和二年(一六八二)九月二一日当村において初めて検地竿が入れられ開始された(旧柳河藩誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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