朝日日本歴史人物事典 「吉良貞家」の解説
吉良貞家
南北朝時代の武将。吉良氏の庶流義継を祖とする経家の長子。奥州管領。建武1(1334)年に鎌倉府に参勤していることが知られている。のち上洛。室町幕府成立後の建武3/延元1年から康永1/興国3(1342)年までは評定衆であり,引付二番の頭人であったと推定されている。貞家が引付の頭人として明確に確認できるのは,暦応3/興国1年8月18日に,東大寺宛に奉書を発しているときからである。その後所領にかかわる裁判の奉書を修理大夫名で多く発給している。貞和1/興国6年畠山国氏と共に奥州管領として多賀国府に下る。これ以前の幕府による奥羽両国の支配は,軍政官として位置付けられる奥州総大将によってなされてきた。建武4/延元2年以後の奥州総大将は石塔義房であった。それを統治を任務とする管領制に組織を変えたのである。貞家は足利直義に親しいベテランの政治家で,一方,国氏は尊氏の側近であった。最初は両者が協力して奥羽両国の安定化に成功したかにみえた。しかし,観応の擾乱が勃発すると,両者は尊氏,直義の両派に分かれて抗争し,観応2/正平6(1351)年2月,貞家は岩切城で国氏を破ったが,この混乱によって力を得た南朝方に敗れ,多賀城を追われた。しかし,翌年にこれを奪還。文和3/正平9年以後の消息は定かでないが,このころ死去したのではないかとみられる。<参考文献>小川信『足利一門守護発展史の研究』,遠藤巌「奥州管領おぼえ書き」(『歴史』38号)
(伊藤喜良)
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