ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
奥州探題
おうしゅうたんだい
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室町幕府の陸奥(むつ)国統治機関。地方行政府の一つ。足利(あしかが)氏が、斯波家長(しばいえなが)を鎌倉府執事(しつじ)、石塔義房(いしどうよしふさ)を奥州総大将に任命して、奥州掌握に着手し、1346年(正平1・貞和2)に奥州管領(かんれい)府を樹立。奥州管領は、吉良貞家(きらさだいえ)と畠山国氏(はたけやまくにうじ)を初代として、原則として2名が任命されたが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1350~52)以後の政権分裂によって、同時に4名以上の者が管領を称する事態が続いた。義満(よしみつ)政権下の幕府管領細川頼之(ほそかわよりゆき)のとき、奥州探題制に改組。1391年(元中8・明徳2)に一時廃止され、奥羽両国は鎌倉府の配下に置かれたが、1400年(応永7)に、まず斯波大崎氏に探題の称号の復活が認められ、稲村(いなむら)・篠川(ささがわ)両御所の滅亡(1440)後、義政(よしまさ)政権下で、探題制の機能も回復した。しかし、応仁(おうにん)の乱以後、府の機能は形骸(けいがい)化した。なお、当時の大崎関係文書をも素材にして留守(るす)氏が書き上げたといわれる『余目氏(あまるめし)旧記』(1514)は、奥州探題中心の奥羽秩序が描写された記録として重要である。
[遠藤 巌]
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…室町幕府では幕府や関東府の管領・執事が探題と呼ばれた例はなく,それ以外の広い地域の管領権を有する職についてのみ探題と呼ばれた。九州を管領する九州探題,陸奥・出羽2国を管領する奥州探題とそれから分化して出羽1国を管領する羽州探題等である。このほか南北朝期の中国管領(中国探題)細川頼之や戦国期の羽柴秀吉の中国探題などの例もある。…
…その後の陸奥国の政治的中心は,南北朝期の奥州管領斯波氏の後裔大崎氏である。大崎氏は当時奥州探題とよばれ,宮城県北部の大崎五郡を根拠に,軍事指揮,段銭(たんせん)徴収,官途推挙(かんどすいきよ)(推薦)などをよりどころとして,国人との間に弱いながらも一応の統属関係を保っており,この体制は15世紀末まではつづいていた。陸奥国の戦国争乱はこの体制の崩壊のあとにくる。…
※「奥州探題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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