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鎌倉将軍府 かまくらしょうぐんふ

百科事典マイペディアの解説

鎌倉将軍府【かまくらしょうぐんふ】

建武(けんむ)政府の地方統治機関。上野(こうずけ)親王庁とも。1333年後醍醐(ごだいご)天皇の命で皇子成良(なりよし)親王を奉じて足利直義(ただよし)が鎌倉に下向開創

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世界大百科事典 第2版の解説

かまくらしょうぐんふ【鎌倉将軍府】

建武政府の地方統治機関。上野親王庁ともいう。1333年(元弘3)12月足利直義は成良親王を奉じて鎌倉へ下向,ここに奥州将軍府と並ぶ軍・行政府を開創した。府は独自の裁許機構を備え関東十国の土地・年貢についての裁判を行ったが,特別な重要案件については関係文書を整えて中央政府に注進した。政所も併設されたらしい。府は制度的には中央政府の出先機関ではあったが,その運営を足利氏が主導したため,実質的には同氏を中心とする武家勢力の拠点となった。

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世界大百科事典内の鎌倉将軍府の言及

【東国】より

…東国国家あるいは東国政権をたえず生み出しつづけてやまなかったのは,こうした西国と異質な東国の社会,生活そのものであった。
[東北の独自性]
 鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政府は〈天下一同〉の支配を目ざしたが,1334年(建武1)早くも成良親王を奉じた足利直義(ただよし)を鎌倉に遣わし,関東8ヵ国に伊豆,甲斐を加えた10ヵ国を統轄する鎌倉将軍府を認めた。これは事実上,東国政権としての鎌倉幕府を継承する機関であったが,これよりさき,後醍醐は義良親王を奉ずる北畠親房・顕家を陸奥に派遣,陸奥将軍府を設けて鎌倉を牽制させている。…

【武蔵国】より

…この分倍河原で敗れた新田軍により,8世紀建立の武蔵国国分寺は焼滅したが,その鎌倉攻めには熊谷,横山,江戸,豊島,武蔵七党など当国武士の活躍が伝えられており,倒幕が武蔵,相模,陸奥,出羽という幕府の直接基盤の武士の動向によって決定されたところに,得宗専制政治の結末をみることができる。したがって建武政権の成立後,年末に成良親王と足利直義(ただよし)の鎌倉将軍府がつくられると,武士たちは歓呼してこれを迎えた。鎌倉将軍府は陸奥将軍府と並ぶ東国10ヵ国の行政裁判機関であるが,《建武年間記》にみえる六番制の関東廂番(ひさしばん)は実務官僚,外様(とざま)有力武将および足利一門とその根本被官よりなり,現実に訴訟裁判に当たっていた。…

※「鎌倉将軍府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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