百科事典マイペディアの解説
鎌倉将軍府【かまくらしょうぐんふ】
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…東国国家あるいは東国政権をたえず生み出しつづけてやまなかったのは,こうした西国と異質な東国の社会,生活そのものであった。
[東北の独自性]
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政府は〈天下一同〉の支配を目ざしたが,1334年(建武1)早くも成良親王を奉じた足利直義(ただよし)を鎌倉に遣わし,関東8ヵ国に伊豆,甲斐を加えた10ヵ国を統轄する鎌倉将軍府を認めた。これは事実上,東国政権としての鎌倉幕府を継承する機関であったが,これよりさき,後醍醐は義良親王を奉ずる北畠親房・顕家を陸奥に派遣,陸奥将軍府を設けて鎌倉を牽制させている。…
…この分倍河原で敗れた新田軍により,8世紀建立の武蔵国国分寺は焼滅したが,その鎌倉攻めには熊谷,横山,江戸,豊島,武蔵七党など当国武士の活躍が伝えられており,倒幕が武蔵,相模,陸奥,出羽という幕府の直接基盤の武士の動向によって決定されたところに,得宗専制政治の結末をみることができる。したがって建武政権の成立後,年末に成良親王と足利直義(ただよし)の鎌倉将軍府がつくられると,武士たちは歓呼してこれを迎えた。鎌倉将軍府は陸奥将軍府と並ぶ東国10ヵ国の行政裁判機関であるが,《建武年間記》にみえる六番制の関東廂番(ひさしばん)は実務官僚,外様(とざま)有力武将および足利一門とその根本被官よりなり,現実に訴訟裁判に当たっていた。…
※「鎌倉将軍府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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