名護屋城跡(読み)なごやじようあと

日本歴史地名大系 「名護屋城跡」の解説

名護屋城跡
なごやじようあと

[現在地名]鎮西町大字名護屋など

標高八〇メートル余の勝男かつお垣添かきぞえ山)に築かれた平山城で、本丸・二の丸・三の丸・弾正丸・遊撃丸・東出丸・山里丸・水の手曲輪などがあり、大手門はじめ五つの城門があった。昭和二〇年(一九四五)戦災で焼失した仙台(宮城県)青葉あおば城の大手門は、この城の本丸大手門を移したもの。城の規模については、伝狩野光信(右京)筆の「名古屋御宿所」と記す名護屋城屏風に明らかにされている。五層七階の天守閣もあり、慶長元年(一五九六)八月、名護屋城を見聞した朝鮮国人秋黄慎の「日本往還記」に黄金瓦葺の天守閣の存在を記している。名護屋城周辺には諸大名の陣屋が設けられ、「松浦古事記」によれば百数ヵ所の陣屋跡が記録されている。

この地にはもと松浦党の名古屋氏の居城垣添城(垣副城)があったが、豊臣秀吉朝鮮出兵の基地としてここに加藤清正らに新たに築城させたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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