戦国末期の城。佐賀県唐津(からつ)市鎮西(ちんぜい)町名護屋にある。城は東松浦(まつうら)半島突端の台地に築かれており、もともとは中世に水軍として活躍した松浦(まつら)党の1人名護屋氏の本拠が置かれていた所であった。豊臣(とよとみ)秀吉は朝鮮出兵にあたって、朝鮮半島に最短距離にあるこの地に本陣を築くことを考え、1591年(天正19)から築城の工をおこし、翌92年(文禄1)に完成させている。加藤清正(きよまさ)、寺沢広高(てらさわひろたか)を普請奉行(ふしんぶぎょう)とし、縄張りは黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))が担当したもので、規模は東西約330メートル、周囲1.5キロメートルにも及ぶ広大な平城(ひらじろ)である。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪(くるわ)などを備え、九州諸大名に手伝い普請を命じた。本丸には五層七階の天守閣が建てられ、往時の城の模様は1968年(昭和43)に世に出た「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(名護屋城博物館蔵)によって詳細にうかがうことができる。秀吉は1593年(文禄2)から1年余この城に在城しており、城の周囲には166か所の諸大名の陣営が散在し、全盛期には在陣軍勢は10万を超え、さながら城のある半島全体が要塞(ようさい)都市になっていたことを物語る。秀吉死後、遠征軍が帰国するとともに廃城となり建造物なども破却された。材は岸岳(きしだけ)城の材とともに、唐津城へ運ばれた。仙台城二の丸大手門はこの城から移築したものといわれているが、戦災で焼失してしまった。現在は石垣、堀、礎石などが残るのみである。
[小和田哲男]
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佐賀県唐津市鎮西町に遺跡をとどめる城。豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の基地として1591年(天正19)秋から築城。縄張りは黒田孝高が,普請・作事は加藤清正,黒田長政,小西行長らの九州諸侯が分担した。勝雄岳山頂に本丸,東西に二の丸,西の丸,北側山下に山里丸があって港に通じ,城の周辺には諸侯の陣城と町がつくられた。天守は大坂城と同じ規模であったが,秀吉の死後,それらの建物は各地の城に移築され,現在は石垣だけがのこっている。
執筆者:宮上 茂隆
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…台地上の岡集落と海岸の浜集落とに大別され,かんきつ類などの畑作が目立つ岡に対し,浜には県内有数の名護屋漁港がある。名護屋には松浦党の名古屋氏が代々城を構えていたが,豊臣秀吉が朝鮮出兵の前線基地として名護屋城を築き,周辺一帯に諸大名が在陣した。名護屋城跡ならびに陣跡は国の特別史跡。…
※「名護屋城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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