佐賀県北西部にある市。玄界灘(げんかいなだ)に臨む。1932年(昭和7)佐賀市に次ぎ県下で2番目に市制施行。1941年佐志(さし)町、1954年(昭和29)鏡(かがみ)、久里(くり)、鬼塚(おにづか)、湊(みなと)の4村を編入。2005年(平成17)浜玉町(はまたまちょう)、厳木町(きゅうらぎまち)、相知町(おうちちょう)、肥前町(ひぜんちょう)、鎮西町(ちんぜいちょう)、呼子町(よぶこちょう)、北波多村(きたはたむら)と合併。2006年七山村(ななやまむら)を編入。市域は、唐津湾岸を中心に、玉島(たましま)川、松浦(まつうら)川とその支流域、東松浦半島、玄界灘の島嶼(とうしょ)を含む。東北を福岡県と接し、西部は海を挟んで長崎県と対する。島嶼部には、高島、神集島(かしわじま)、加部島(かべしま)、加唐島(かからじま)、馬渡島(まだらしま)、小川島(おがわしま)、松島、向(むく)島などがあり、加部島とは呼子大橋で結ばれる。JR筑肥(ちくひ)線、唐津線、国道202号、203号、204号、323号、382号、二丈(にじょう)浜玉道路が通じ、佐賀唐津道路(厳木バイパス、厳木多久(たく)道路)の相知長部田(おうちながへた)など4インターチェンジ、西九州自動車道唐津道路(国道497号)の浜玉など4インターチェンジがある。
唐津湾奥中央に松浦川が注ぎ、この河口付近一帯はかつて松浦潟(まつらがた)と称された所で、砂州状の東の浜、西の浜などの砂丘列や、潟(かた)、後背湿地などが分布する。東は花崗(かこう)岩類の脊振山地(せふりさんち)、西方は玄武岩台地(上場台地(うわばだいち))と溺れ谷(おぼれだに)の東松浦半島に続く。高島、神集島、大島(陸繋(りくけい)島)、鏡山(284メートル)など玄武岩のメサ(テーブル状)地形が目だつ。面積487.60平方キロメートル、人口11万7373(2020)。
[川崎 茂]
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の末盧(まつら)国は唐津地方一帯とされ、「唐津」の名は、大陸や朝鮮南部の伽羅(から)(任那(みまな))方面と通ずる要津(ようしん)であったことを示す。『万葉集』などにみる松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説は、任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさてひこ)との哀話を伝え、この地方のもつ地理的重要性を物語る。神功皇后(じんぐうこうごう)説話にも登場する。古来、壱岐(いき)、対馬(つしま)を経て朝鮮に至る最短ルートの要衝であった。中世は松浦党(まつらとう)諸氏の勢力圏にあった。倭寇(わこう)の拠点ともなり、さらに豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、朝鮮出兵のため名護屋(なごや)に築城、軍事基地を築き、その遺構は現在「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の特別史跡となっている。相知地区は元寇(げんこう)で活躍した相知氏ゆかりの地。また、岸岳(きしだけ)城跡は中世上松浦(かみまつら)の首領波多氏の拠点。
近世は唐津藩領域であった。唐津の中心市街地の形成は、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の唐津藩主寺沢広高(てらさわひろたか)(1563―1633)による城下町建設に始まる。広高は、松浦川河口、唐津湾に面する満島(まんとう)山に唐津城本丸を築き、また松浦川の流路を付け替えた。寺沢氏改易後、譜代(ふだい)大名の転封相次ぎ(大久保、大給(おぎゅう)松平、土井、水野、小笠原(おがさわら)氏)、6~8万石程度の城下町として幕末を迎えた。厳木宿は、唐津、佐賀両城下を結ぶ笹原(ささばる)峠越え往還筋の宿駅であった。
江戸末期以来この地域は唐津炭田で栄え、明治維新期以降は唐津炭田の石炭積出し地として脚光を浴びた。とくに1899年(明治32)の唐津興業鉄道(現、JR唐津線)の岩屋駅、厳木駅開業以後、貝島、住友資本などにより炭鉱開発が本格化。明治末から大正時代にかけて三菱芳谷(みつびしよしたに)炭坑が唐津炭田の王座を占めた。積出し港は、1898年唐津興業鉄道の西唐津―山本間開通により、松浦川河口の満島(みつしま)から西唐津方面に移った。大島もやがて埋立てにより陸繋化され、西唐津地区は石炭積出し地、貯炭基地として繁栄した。しかし、エネルギー革命により炭鉱は衰退、1965年(昭和40)すべて閉山し、国鉄唐津線の岸岳支線も1971年に廃止された。唐津は、水産基地などへの変容をとげ、唐津魚市場や水産加工団地などの立地をみた。火力発電の唐津発電所(2015年閉鎖)、妙見(みょうけん)工業団地などができ、港湾整備も行われ、とくに西唐津方面の変化が大きい。その後、JR筑肥線の電化や福岡市営地下鉄乗入れ、唐津線高架化、バイパス建設など新しい交通体系の整備が進んだ。
[川崎 茂]
農業では、ミカンの産地として知られ樹園地が山間傾斜地一帯に広がる。組織化の進んだ米・麦生産のほか、ブドウ、ウメ、カキ、キウイフルーツ、ナシ、イチゴ、野菜、葉タバコ、茶などの栽培、畜産、酪農が盛ん。スギの美林を軸とした林業も振興。唐津湾や東松浦半島には高串(たかくし)、名護屋などの漁港が点在し、アジ、サバ、イワシ、タイ、イカなどの水揚げがあり、真珠、ハマチ、アワビ、ウニなどの養殖も行われている。小川島はかつては玄海捕鯨基地であった。工業では企業誘致による活性化が図られている。近年は福岡方面への通勤者も多い。観光開発にも力を入れている。
[川崎 茂]
市域は玄海国定公園に指定され、眺望絶景の鏡山、国の特別名勝「虹の松原(にじのまつばら)」、玄武岩の海食洞「屋形石の七ツ釜(ななつがま)」(国指定天然記念物)、唐津城の舞鶴(まいづる)公園、波戸岬(はどみさき)など景勝地に富む。さらに、葉山尻支石墓群(はやまじりしせきぼぐん)、谷口(たにぐち)古墳、横田下(よこたしも)古墳、菜畑遺跡(なばたけいせき)(いずれも国指定史跡)など史跡が多く、発掘調査が進んでいる。国指定重要文化財として、肥前唐津市宇木(うき)出土品、恵日寺(えにちじ)の朝鮮鐘(登録名「銅鐘」。大平六年九月の銘)、明治時代の旧高取家住宅などがある。肥前地区の高串アコウ自生北限地帯、広沢(こうたく)寺のソテツ、馬渡島や加唐島などで生息するカラスバトは、国指定天然記念物。毎年11月に行われる「唐津くんちの曳山(ひきやま)行事」は国指定重要無形民俗文化財。民俗芸能として、志気浮立(しげぶりゅう)、中山浮立(ぶりゅう)、県指定重要無形民俗文化財の広瀬浮立(ふりゅう)などが知られる。小友(ことも)の祇園(ぎおん)祭、松浦佐用姫ゆかりの田島神社の夏越(なごし)祭、名護屋の「盆綱ねり」、呼子の大綱引など年中行事も多彩。馬渡島と松島にはキリシタンの伝統があり、教会がある。馬渡島カトリック教会(御堂天主堂)は、長崎県平戸の旧紐差(ひもさし)教会を移築した木造建築。
唐津焼は名産品として有名。岸岳山麓に点在する初期段階の唐津焼を焼成した窯跡群を「岸岳古窯群(きしだけこようぐん)」と総称するが、この古窯群のうち、北波多地区にある飯洞甕(はんどうがめ)上窯跡、飯洞甕下窯跡、帆柱(ほばしら)窯跡、皿屋(さらや)窯跡、皿屋上窯跡は、国指定史跡「肥前陶器窯(かま)跡」に含まれる。
[川崎 茂]
『『唐津市史』(1962・唐津市)』▽『『唐津市史――現代編』(1990・唐津市)』
佐賀県北西部の市。2005年1月旧唐津市と相知(おうち),厳木(きゆうらぎ),鎮西(ちんぜい),浜玉(はまたま),肥前(ひぜん),呼子(よぶこ)の6町および北波多(きたはた)村が合体して成立,さらに06年1月七山(ななやま)村を編入した。人口12万6926(2010)。
唐津市南部の旧町。旧東松浦郡所属。人口8853(2000)。北は旧唐津市,南西は伊万里市に接する。周囲を山地に囲まれ,中央部で松浦川と支流厳木(きゅうらぎ)川が合流する。中世には松浦(まつら)党の相知,波多,牟田部などの諸氏が支配した。江戸時代は唐津藩領と天領で,幕末以降,石炭採掘が始まり,明治後期には三菱が進出,唐津炭田の中心としてめざましい発展をとげた。しかし,第2次世界大戦後の復興もつかの間,石炭不況により1963年には相知炭鉱が閉山され,人口も半減した。石炭に代わる産業として衣服,食料品など軽工業を誘致している。農業は米,ミカンを主体に,施設園芸,野菜,茶などの複合経営が行われている。平安末期~室町初期と推定される鵜殿石仏群,見帰りの滝(高さ約100m)などがある。JR唐津・筑肥両線が通る。
執筆者:松橋 公治
唐津市中北部,唐津湾に面する旧市。1932年市制。人口7万8945(2000)。松浦川河口付近を中心に,東ノ浜,西ノ浜の砂浜海岸が松浦潟に弧を描く。《魏志倭人伝》の末盧(まつら)国はこの地方一帯とされる。市名は,古来大陸や朝鮮南部の加羅(から)(韓(から),任那(みまな))方面への渡航の要津であったことを示すともいわれ,任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)との悲恋伝説は《万葉集》にも登場する。江戸期は,譜代大名の転封相次ぐ唐津藩の城下町で,松浦川河口の満島山の唐津城がその中心であった。明治以降,西唐津の唐津港は唐津炭田の石炭積出港として脚光を浴び,石炭を運ぶ唐津線の西唐津駅はターミナルとしてにぎわった。1960年代の石炭不況後,唐津港付近一帯の港湾整備,工業用地造成に努め,火力発電所や水産加工団地などが立地した。1983年筑肥線が福岡市地下鉄に乗り入れるようになり,福岡市との結びつきが一段と強まった。虹ノ松原をはじめ,鏡山,七ッ釜(海食洞)など玄海国定公園の景勝に富み,伝統の唐津焼,恵日(えにち)寺の朝鮮鐘(重要文化財),葉山尻支石墓群(史跡)も知られる。唐津くんちの曳山行事は重要無形民俗文化財である。
執筆者:川崎 茂
唐津城は1602-08年(慶長7-13)に築城されたが,この折に肥前名護屋城の材木や道具が多く用いられた。また,《松浦拾風土記》によれば,城下町は1万石に1町の割合で町割りが行われ,唐津藩12万3000石の石高に従って12町がつくられた。藩政中期には内町の11町(刀町,米屋町,呉服町,本町,紺屋町,平野町,中町,木綿町,京町,八百屋町,新町)と外町の5町(材木町,大石町,塩屋町,東裏町,魚屋町)と江川町を加えた合計17町が唐津町方を構成した。これら町人町のほかに弓野町,鷹匠町,大町,坊主町,十人町,鉄砲町があり,それらには下級家臣が住し,また船頭町には御船手衆が,谷町には御手廻衆が住居を構えていた。町方の機構は町奉行-大年寄-年寄-組頭-町人となっていたが,大年寄の制は安永年間(1772-81)に設けられ,人数はほぼ3人で輪番制をとり,呉服町の安楽寺がおもに会所であり,大年寄は年寄など町方役人の選定と監督,町方諸事項の処理をつかさどった。年寄は1町から1人ないし2人選ばれた。《松浦拾風土記》によれば,文化年間(1804-18)の町方軒数は本軒787軒半,人数は2969人(男1547人,女1422人)だったが,このころの株仲間の株数は酒造株39,糀株21,紺屋株16,豆腐株15などであった。同書にも〈焼物師衆四軒有り〉とあるように,唐津焼の中心産地だったが,木蠟,和紙,海産物などの取引も盛んであった。幕末期には石炭採掘が松浦川上流地域で活発化し,石炭が川舟によって運ばれ,その集散地として満島がにぎわいを呈するようになった。満島には石炭問屋が軒を並べ,長崎や瀬戸内との石炭取引が盛況をきたし,石炭産業の興隆によって唐津も一段と発展した。唐津の祭りとして早くから御神幸が催されていたが,1819年(文政2)に刀町が赤獅子の曳山を奉納して以来明治初年までに15台の曳山がつくられ,現在もにぎわう。
執筆者:長野 暹
唐津市南西部の旧村。旧東松浦郡所属。人口4736(2000)。北は旧唐津市,南西は伊万里市に接する。村域は南北に細長く,中央を松浦川支流の徳須恵川が北流する。享保年間(1716-36)に炭鉱が開かれ,明治~第2次世界大戦中は唐津炭田の一部として活況を呈したが,戦後の石炭産業崩壊により閉山があいつぎ,現在はすべてが閉山されている。主産業の農業は,米,ミカン,茶の栽培のほか,イチゴなどの施設園芸も盛ん。中世以来の伝統をもつ岸岳焼の生産地である。
唐津市南東部の旧町。旧東松浦郡所属。人口5815(2000)。町域の大部分は天山山系の山地におおわれ,天山と椿山を源とする厳木川が町内を流れる。江戸後期以降炭鉱開発が行われ,炭鉱町として発展し,JR唐津線の厳木・岩屋両駅は石炭の積出しでにぎわったが,第2次大戦後の石炭産業崩壊により人口も半減した。近年,跡地にグローブ製造,久留米絣などの軽工業を誘致し,産業の振興を図っている。農業は米作,ミカン栽培を中心に,イチゴなどの施設園芸,野菜,茶の栽培なども行われている。広瀬は古くからの天山の登山口で,天山神社が鎮座する。厳木川には多目的の厳木ダムがある。
唐津市北西部の旧町。旧東松浦郡所属。1956年名護屋・打上両村が合体,町制。人口7402(2000)。玄界灘に面し,加唐(かから)島,馬渡(まだら)島,松島の3島を含む。町域は東松浦半島の上場(うわば)台地と呼ばれる緩やかな玄武岩性台地で占められ,河川の発達は乏しい。名護屋は古代から中世にかけて大陸渡航の要地として知られたが,1591年(天正19)から豊臣秀吉が朝鮮出兵の本拠地として名護屋城を築城,周辺には諸大名の陣屋が100以上設けられ,最盛期には10万人をこえる軍勢がいたといわれる。主産業は農漁業で,農業では米,ミカンの基幹作物のほか畜産,タバコ栽培なども行われる。漁業では巻網漁業のほか近年養殖も増えている。海岸部は玄海国定公園に属し,最北端にある波戸(はど)岬は海中公園になっている。名護屋大橋(1967完成)など名所も多く,広沢寺のソテツは天然記念物に指定されている。
唐津市北東部の旧村。旧東松浦郡所属。人口2552(2005)。北は脊振山地を境に福岡県に接する。北部は脊振山地の南西斜面,南部は天山山系の北縁を占める山村で,山間を流れる諸河川は合して玉島川となり,西流して旧浜玉町に入る。福岡県境にある浮岳(吉井山。805m)の稜線上には白木峠,荒川峠などがあり,古くから肥前と筑前とを結ぶ峠であった。一帯は,中世には鏡神社(現,唐津市の旧唐津市)の大宮司で鬼ヶ城(現同市,旧浜玉町)に居城した草野氏の支配下にあった。村名の七山とは馬川(まのかわ),滝川,藤川など七つの村落のことで,各々〈山〉と称し,七山郷と呼ばれていた。藤川が中心集落で,796年(延暦15)肥前守に任ぜられて下向した岡本氏が勧請したという賀茂神社(鳴神社)がある。農林業が中心で,ミカン,野菜,花卉の栽培や畜産も行われ,杉材や苗木などを産する。村内北西端の十坊(とんぼ)山(535m)一帯は玄海国定公園に含まれる。玉島川に沿って国道323号線が通じる。
唐津市東部の旧町。旧東松浦郡所属。1956年に成立した浜崎玉島町が,66年改称。人口1万0415(2000)。西は唐津市,北は福岡県に接し,北西は唐津湾に臨む。脊振山地西部の山嶺に源を発する玉島川が町域を西流して唐津湾に注ぐ。玉島川には神功皇后アユ釣りの伝説があり,《万葉集》にも詠まれた松浦(まつら)川は現在の松浦(まつうら)川ではなく,この川を指す。町の中心の浜崎は玉島川河口左岸にあり,虹ノ松原の東端にあたる。中世には,北部の城山に鏡神社(現,唐津市の旧唐津市)の大宮司草野氏が鬼ヶ城を構え,一帯を支配した。浜崎は近世には廻船の停泊地として栄えた。農業を主産業とし,山麓地帯でのミカン栽培が盛んで,〈玉島ミカン〉として知られる。玉島川に並行して国道323号線が,唐津湾岸を国道202号線とJR筑肥線が通る。城山の山麓に谷口古墳(史),旧唐津市境から延びる鏡山の山すそ近くには横田下古墳(史)があり,後者は横穴式石室から10体の遺骨と鏡,筒形銅器などの副葬品を出土した。
唐津市西部の旧町。旧東松浦郡所属。人口9125(2000)。東松浦半島西部にあり,海上に向(むく)島が浮かぶ。東は旧唐津市,南東は伊万里市に接し,北東は仮屋湾を挟んで玄海町,西から南西は伊万里湾上の鷹島,福島(ともに長崎県)に相対する。町域の大部分が玄武岩性の上場台地で,耕地は少ない。小河川はあるが水には恵まれず,しばしば干害に見舞われた。海岸は沈降海岸で絶壁が多いが,星賀(ほしか),高串などは近世から漁港であり,伊万里湾に臨む杉野浦は古来,唐津から平戸(長崎県)への渡航場であった。農漁業が主産業で,米作のほかミカンの栽培や肉牛飼育が行われる。漁業では,沿岸漁業の不振から近年は真珠,タイなどの養殖が伸びている。海岸部は玄海国定公園に含まれ,高串のアコウ樹林(天)はその自生北限地帯である。
執筆者:松橋 公治
唐津市北西端の旧町。旧東松浦郡所属。人口6155(2000)。東松浦半島の北端にあり,玄界灘西部の壱岐水道に臨み,海上の加部島や小川島も町域に含む。玄武岩性の上場台地末端の入江にある呼子港は,北面に浮かぶ加部島が防波堤の役割をなす天然の良港である。古来,大陸への海上交通の要地で,加部島は,任那に渡る大伴狭手彦のあとを追った松浦佐用姫が石に化したという望夫石(ぼうふせき)の伝説の地である。近世には捕鯨基地,廻船の停泊地としてにぎわい,小川島の捕鯨は唐津藩の保護をうけて栄え,鯨を見張る山見小屋や鯨の供養塔などが残る。今日も水産業が盛んで,イカ,タイ,イワシ,ハマチ,ウニなどが水揚げされる。周辺一帯は玄海国定公園に含まれ,呼子の朝市や大綱引きは広く知られる。唐津方面から国道204号線が通じ,壱岐の印通寺(いんどうじ)との間にはフェリーが通っていたが,現在は呼子から唐津港に変更されている。
執筆者:川崎 茂
古代から中国大陸へ渡る船の寄航地として知られた呼子浦は,《肥前国風土記》に見える〈登望(とも)駅〉の地に比定されている。呼子浦の初見史料は1314年(正和3)4月16日の鎮西裁許状(《有浦文書》)で,1228年(安貞2)に松浦荘内の田地を〈呼子浦遊君冝香〉なる者に売却したことを示す記事が見える。鎌倉時代の呼子は石志氏,佐志氏,波多氏などの支配下にあったが,南北朝時代に波多氏の一族が呼子氏を称するようになり,豊臣秀吉によって波多氏が滅亡させられるまで,呼子氏による支配が続いた。《海東諸国紀》によれば,呼子氏は朝鮮に歳遣船を派遣して交易を行っており,朝鮮・中国側では呼子を倭寇の根拠地と見なしていた。1371年(建徳2・応安4)今川了俊の弟頼泰は九州における足利方の勢力回復を目的として,呼子に上陸している。江戸時代には唐津藩の俵物の集荷積出港として栄え,産物会所が設けられたほか,捕鯨基地として活況を呈した。
執筆者:瀬野 精一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…しかし,朝日,古曾部,赤膚は遠州の活動期以後の窯である。他方,松平不昧が著した《瀬戸陶器濫觴(らんしよう)》では,遠州時代の国焼として高取,薩摩,肥後,丹波,膳所,唐津,備前の7窯をあげており,これらの窯は遠州時代に活動していた窯であった。この二つの資料のうち,共通している高取焼と膳所焼はたしかに遠州との結びつきも深いが,全体として七窯の選択根拠ははなはだあいまいで,信憑性は薄い。…
…
[沿革]
県域はかつての肥前国の北東部にあたる。江戸末期には佐賀藩とその支藩である小城(おぎ),蓮池,鹿島の3藩,および唐津藩と対馬藩(1869年厳原(いづはら)藩と称する)の飛地と天領が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い各藩はそれぞれ県となったが,まもなく佐賀県と厳原県が合併して伊万里県が成立,続いて他の4県も併合した。…
※「唐津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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