唐津(読み)からつ

精選版 日本国語大辞典 「唐津」の意味・読み・例文・類語

からつ【唐津】

[1] 佐賀県西北部、唐津湾に臨む地名。朝鮮半島へ渡る津の意。古来大陸交通の要地。小笠原氏城下町唐津炭田の積出港として繁栄。玄海国定公園の中心。唐津焼は有名。昭和七年(一九三二)市制。
[2] 〘名〙 「からつやき(唐津焼)」の略。
※雑俳・川柳評万句合‐明和四(1767)天二「隠居どら唐津なんどをまげに遣り」

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デジタル大辞泉 「唐津」の意味・読み・例文・類語

からつ【唐津】

佐賀県北西部の市。唐津湾に臨む。もと小笠原氏の城下町、明治以後は石炭積み出し港として繁栄。唐津焼の産地。唐津城跡・虹の松原鏡山などがあり、玄海国定公園の一部。平成17年(2005)1月に周辺7町村と合併。同18年1月に七山ななやま村を編入。人口12.7万(2010)。
唐津焼」の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「唐津」の意味・わかりやすい解説

唐津[市] (からつ)

佐賀県北西部の市。2005年1月旧唐津市と相知(おうち),厳木(きゆうらぎ),鎮西(ちんぜい),浜玉(はまたま),肥前(ひぜん),呼子(よぶこ)の6町および北波多(きたはた)村が合体して成立,さらに06年1月七山(ななやま)村を編入した。人口12万6926(2010)。

唐津市南部の旧町。旧東松浦郡所属。人口8853(2000)。北は旧唐津市,南西は伊万里市に接する。周囲を山地に囲まれ,中央部で松浦川と支流厳木(きゅうらぎ)川が合流する。中世には松浦(まつら)党の相知,波多,牟田部などの諸氏が支配した。江戸時代は唐津藩領と天領で,幕末以降,石炭採掘が始まり,明治後期には三菱が進出,唐津炭田の中心としてめざましい発展をとげた。しかし,第2次世界大戦後の復興もつかの間,石炭不況により1963年には相知炭鉱が閉山され,人口も半減した。石炭に代わる産業として衣服,食料品など軽工業を誘致している。農業は米,ミカンを主体に,施設園芸,野菜,茶などの複合経営が行われている。平安末期~室町初期と推定される鵜殿石仏群,見帰りの滝(高さ約100m)などがある。JR唐津・筑肥両線が通る。
執筆者:

唐津市中北部,唐津湾に面する旧市。1932年市制。人口7万8945(2000)。松浦川河口付近を中心に,東ノ浜,西ノ浜の砂浜海岸が松浦潟に弧を描く。《魏志倭人伝》の末盧(まつら)国はこの地方一帯とされる。市名は,古来大陸や朝鮮南部の加羅(から)(韓(から),任那(みまな))方面への渡航の要津であったことを示すともいわれ,任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)との悲恋伝説は《万葉集》にも登場する。江戸期は,譜代大名の転封相次ぐ唐津藩の城下町で,松浦川河口の満島山の唐津城がその中心であった。明治以降,西唐津の唐津港は唐津炭田の石炭積出港として脚光を浴び,石炭を運ぶ唐津線の西唐津駅はターミナルとしてにぎわった。1960年代の石炭不況後,唐津港付近一帯の港湾整備,工業用地造成に努め,火力発電所や水産加工団地などが立地した。1983年筑肥線が福岡市地下鉄に乗り入れるようになり,福岡市との結びつきが一段と強まった。虹ノ松原をはじめ,鏡山,七ッ釜(海食洞)など玄海国定公園の景勝に富み,伝統の唐津焼,恵日(えにち)寺の朝鮮鐘(重要文化財),葉山尻支石墓群(史跡)も知られる。唐津くんちの曳山行事は重要無形民俗文化財である。
執筆者:

唐津城は1602-08年(慶長7-13)に築城されたが,この折に肥前名護屋城の材木や道具が多く用いられた。また,《松浦拾風土記》によれば,城下町は1万石に1町の割合で町割りが行われ,唐津藩12万3000石の石高に従って12町がつくられた。藩政中期には内町の11町(刀町,米屋町,呉服町,本町,紺屋町,平野町,中町,木綿町,京町,八百屋町,新町)と外町の5町(材木町,大石町,塩屋町,東裏町,魚屋町)と江川町を加えた合計17町が唐津町方を構成した。これら町人町のほかに弓野町,鷹匠町,大町,坊主町,十人町,鉄砲町があり,それらには下級家臣が住し,また船頭町には御船手衆が,谷町には御手廻衆が住居を構えていた。町方の機構は町奉行-大年寄-年寄-組頭-町人となっていたが,大年寄の制は安永年間(1772-81)に設けられ,人数はほぼ3人で輪番制をとり,呉服町の安楽寺がおもに会所であり,大年寄は年寄など町方役人の選定と監督,町方諸事項の処理をつかさどった。年寄は1町から1人ないし2人選ばれた。《松浦拾風土記》によれば,文化年間(1804-18)の町方軒数は本軒787軒半,人数は2969人(男1547人,女1422人)だったが,このころの株仲間の株数は酒造株39,糀株21,紺屋株16,豆腐株15などであった。同書にも〈焼物師衆四軒有り〉とあるように,唐津焼の中心産地だったが,木蠟,和紙,海産物などの取引も盛んであった。幕末期には石炭採掘が松浦川上流地域で活発化し,石炭が川舟によって運ばれ,その集散地として満島がにぎわいを呈するようになった。満島には石炭問屋が軒を並べ,長崎や瀬戸内との石炭取引が盛況をきたし,石炭産業の興隆によって唐津も一段と発展した。唐津の祭りとして早くから御神幸が催されていたが,1819年(文政2)に刀町が赤獅子の曳山を奉納して以来明治初年までに15台の曳山がつくられ,現在もにぎわう。
執筆者:

唐津市南西部の旧村。旧東松浦郡所属。人口4736(2000)。北は旧唐津市,南西は伊万里市に接する。村域は南北に細長く,中央を松浦川支流の徳須恵川が北流する。享保年間(1716-36)に炭鉱が開かれ,明治~第2次世界大戦中は唐津炭田の一部として活況を呈したが,戦後の石炭産業崩壊により閉山があいつぎ,現在はすべてが閉山されている。主産業の農業は,米,ミカン,茶の栽培のほか,イチゴなどの施設園芸も盛ん。中世以来の伝統をもつ岸岳焼の生産地である。

唐津市南東部の旧町。旧東松浦郡所属。人口5815(2000)。町域の大部分は天山山系の山地におおわれ,天山と椿山を源とする厳木川が町内を流れる。江戸後期以降炭鉱開発が行われ,炭鉱町として発展し,JR唐津線の厳木・岩屋両駅は石炭の積出しでにぎわったが,第2次大戦後の石炭産業崩壊により人口も半減した。近年,跡地にグローブ製造,久留米絣などの軽工業を誘致し,産業の振興を図っている。農業は米作,ミカン栽培を中心に,イチゴなどの施設園芸,野菜,茶の栽培なども行われている。広瀬は古くからの天山の登山口で,天山神社が鎮座する。厳木川には多目的の厳木ダムがある。

唐津市北西部の旧町。旧東松浦郡所属。1956年名護屋・打上両村が合体,町制。人口7402(2000)。玄界灘に面し,加唐(かから)島,馬渡(まだら)島,松島の3島を含む。町域は東松浦半島の上場(うわば)台地と呼ばれる緩やかな玄武岩性台地で占められ,河川の発達は乏しい。名護屋は古代から中世にかけて大陸渡航の要地として知られたが,1591年(天正19)から豊臣秀吉が朝鮮出兵の本拠地として名護屋城を築城,周辺には諸大名の陣屋が100以上設けられ,最盛期には10万人をこえる軍勢がいたといわれる。主産業は農漁業で,農業では米,ミカンの基幹作物のほか畜産,タバコ栽培なども行われる。漁業では巻網漁業のほか近年養殖も増えている。海岸部は玄海国定公園に属し,最北端にある波戸(はど)岬は海中公園になっている。名護屋大橋(1967完成)など名所も多く,広沢寺のソテツは天然記念物に指定されている。

唐津市北東部の旧村。旧東松浦郡所属。人口2552(2005)。北は脊振山地を境に福岡県に接する。北部は脊振山地の南西斜面,南部は天山山系の北縁を占める山村で,山間を流れる諸河川は合して玉島川となり,西流して旧浜玉町に入る。福岡県境にある浮岳(吉井山。805m)の稜線上には白木峠,荒川峠などがあり,古くから肥前と筑前とを結ぶ峠であった。一帯は,中世には鏡神社(現,唐津市の旧唐津市)の大宮司で鬼ヶ城(現同市,旧浜玉町)に居城した草野氏の支配下にあった。村名の七山とは馬川(まのかわ),滝川,藤川など七つの村落のことで,各々〈山〉と称し,七山郷と呼ばれていた。藤川が中心集落で,796年(延暦15)肥前守に任ぜられて下向した岡本氏が勧請したという賀茂神社(鳴神社)がある。農林業が中心で,ミカン,野菜,花卉の栽培や畜産も行われ,杉材や苗木などを産する。村内北西端の十坊(とんぼ)山(535m)一帯は玄海国定公園に含まれる。玉島川に沿って国道323号線が通じる。

唐津市東部の旧町。旧東松浦郡所属。1956年に成立した浜崎玉島町が,66年改称。人口1万0415(2000)。西は唐津市,北は福岡県に接し,北西は唐津湾に臨む。脊振山地西部の山嶺に源を発する玉島川が町域を西流して唐津湾に注ぐ。玉島川には神功皇后アユ釣りの伝説があり,《万葉集》にも詠まれた松浦(まつら)川は現在の松浦(まつうら)川ではなく,この川を指す。町の中心の浜崎は玉島川河口左岸にあり,虹ノ松原の東端にあたる。中世には,北部の城山に鏡神社(現,唐津市の旧唐津市)の大宮司草野氏が鬼ヶ城を構え,一帯を支配した。浜崎は近世には廻船の停泊地として栄えた。農業を主産業とし,山麓地帯でのミカン栽培が盛んで,〈玉島ミカン〉として知られる。玉島川に並行して国道323号線が,唐津湾岸を国道202号線とJR筑肥線が通る。城山の山麓に谷口古墳(史),旧唐津市境から延びる鏡山の山すそ近くには横田下古墳(史)があり,後者は横穴式石室から10体の遺骨と鏡,筒形銅器などの副葬品を出土した。

唐津市西部の旧町。旧東松浦郡所属。人口9125(2000)。東松浦半島西部にあり,海上に向(むく)島が浮かぶ。東は旧唐津市,南東は伊万里市に接し,北東は仮屋湾を挟んで玄海町,西から南西は伊万里湾上の鷹島,福島(ともに長崎県)に相対する。町域の大部分が玄武岩性の上場台地で,耕地は少ない。小河川はあるが水には恵まれず,しばしば干害に見舞われた。海岸は沈降海岸で絶壁が多いが,星賀(ほしか),高串などは近世から漁港であり,伊万里湾に臨む杉野浦は古来,唐津から平戸(長崎県)への渡航場であった。農漁業が主産業で,米作のほかミカンの栽培や肉牛飼育が行われる。漁業では,沿岸漁業の不振から近年は真珠,タイなどの養殖が伸びている。海岸部は玄海国定公園に含まれ,高串のアコウ樹林(天)はその自生北限地帯である。
執筆者:

唐津市北西端の旧町。旧東松浦郡所属。人口6155(2000)。東松浦半島の北端にあり,玄界灘西部の壱岐水道に臨み,海上の加部島や小川島も町域に含む。玄武岩性の上場台地末端の入江にある呼子港は,北面に浮かぶ加部島が防波堤の役割をなす天然の良港である。古来,大陸への海上交通の要地で,加部島は,任那に渡る大伴狭手彦のあとを追った松浦佐用姫が石に化したという望夫石(ぼうふせき)の伝説の地である。近世には捕鯨基地,廻船の停泊地としてにぎわい,小川島の捕鯨は唐津藩の保護をうけて栄え,鯨を見張る山見小屋や鯨の供養塔などが残る。今日も水産業が盛んで,イカ,タイ,イワシ,ハマチ,ウニなどが水揚げされる。周辺一帯は玄海国定公園に含まれ,呼子の朝市や大綱引きは広く知られる。唐津方面から国道204号線が通じ,壱岐の印通寺(いんどうじ)との間にはフェリーが通っていたが,現在は呼子から唐津港に変更されている。
執筆者:

古代から中国大陸へ渡る船の寄航地として知られた呼子浦は,《肥前国風土記》に見える〈登望(とも)駅〉の地に比定されている。呼子浦の初見史料は1314年(正和3)4月16日の鎮西裁許状(《有浦文書》)で,1228年(安貞2)に松浦荘内の田地を〈呼子浦遊君冝香〉なる者に売却したことを示す記事が見える。鎌倉時代の呼子は石志氏,佐志氏,波多氏などの支配下にあったが,南北朝時代に波多氏の一族が呼子氏を称するようになり,豊臣秀吉によって波多氏が滅亡させられるまで,呼子氏による支配が続いた。《海東諸国紀》によれば,呼子氏は朝鮮に歳遣船を派遣して交易を行っており,朝鮮・中国側では呼子を倭寇の根拠地と見なしていた。1371年(建徳2・応安4)今川了俊の弟頼泰は九州における足利方の勢力回復を目的として,呼子に上陸している。江戸時代には唐津藩の俵物の集荷積出港として栄え,産物会所が設けられたほか,捕鯨基地として活況を呈した。
執筆者:

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旺文社日本史事典 三訂版 「唐津」の解説

唐津
からつ

佐賀県東松浦半島南東,唐津湾に面した港湾都市
古来,朝鮮半島への交通要地で,唐船出入の津で「唐津」の名がある。1602年寺沢広高の築城以来城下町として繁栄した。文禄・慶長の役以後発達した唐津焼は有名。1932年市制を施行。

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世界大百科事典(旧版)内の唐津の言及

【佐賀[県]】より


[沿革]
 県域はかつての肥前国の北東部にあたる。江戸末期には佐賀藩とその支藩である小城(おぎ),蓮池,鹿島の3藩,および唐津藩対馬藩(1869年厳原(いづはら)藩と称する)の飛地と天領が置かれていた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い各藩はそれぞれ県となったが,まもなく佐賀県と厳原県が合併して伊万里県が成立,続いて他の4県も併合した。…

※「唐津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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