国指定史跡ガイド 「名護屋城跡並陣跡」の解説
なごやじょうあとならびにじんあと【名護屋城跡並陣跡】
佐賀県唐津市鎮西町、東松浦郡玄海町にある城跡。玄界灘に突き出た東松浦半島の北端、波戸岬の標高約90mの丘陵上に位置する。全国平定を果たした豊臣秀吉が大陸への侵攻をめざし、その前線基地として築かれた17haに及ぶ陣城である。1591年(天正19)、「唐入り」を翌年に決行すると宣言した秀吉は、加藤清正と寺沢広高を普請奉行とし、黒田長政・小西行長など九州の大名を動員して、約5ヵ月という突貫工事で城を造らせた。もとあった名護屋氏の垣添(かきぞえ)城を大改修し、高石垣を築いて本丸・二の丸・三の丸・東出丸などを配した城は、5重7階の天守がそびえたち、大坂城に次ぐほどの規模を誇っていた。周囲には130ヵ所あまりの陣屋が築かれ、大軍を率いた全国の大名が集結し、ここから朝鮮半島に出兵していった。1598年(慶長3)、秀吉の死によって慶長の役が終わると、城は棄却され、その後は建物の解体や石垣の破壊が行われたが、広大な城跡は諸大名の23ヵ所の陣跡とともに、1926年(大正15)に国の史跡に、1955年(昭和30)に特別史跡に指定された。佐賀県立名護屋城博物館が隣接し、築城当時の様子が模型で再現され、出土遺物が展示されている。JR唐津線ほか唐津駅から昭和バス「名護屋城博物館入口」下車、徒歩約5分。