含翠堂跡(読み)がんすいどうあと

日本歴史地名大系 「含翠堂跡」の解説

含翠堂跡
がんすいどうあと

[現在地名]平野区平野市町三丁目

享保二年(一七一七)五月五日、平野郷ひらのごういち町に創設された漢学塾。郷民の手で作られ維持されたところから郷学と称される。大坂町人の学問所として知られる懐徳かいとく(跡地は現東区)創設に先立つこと七年で、その創立にも影響を与えた。「興立生員」といわれる創立の同志中は土橋七郎兵衛友直・土橋九郎右衛門宗信・成安源右衛門栄信・徳田四郎左衛門宗雪・井上佐兵衛正臣・間元之進宗好の六名で、「助力生員」として懐徳堂創立五同志の富永芳春三輪執斎らがいた。井上正臣邸の一部を借りて校舎とし、庭に老松があったので老松堂と称した。その後、大坂より講師に招かれた三宅石庵が宋の范質の五言古詩「戒従子杲」の一節「遅々澗畔松 鬱々含晩翠」の一節から採って含翠堂と改めたという。

創設の中心は土橋友直で、友直は貝塚かいづか(現貝塚市)の三宅氏より平野七名家の一家三上家の婿養子となり、同じく七名家の土橋家を継いで郷町の惣年寄も務めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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