江戸中期の儒学者。寛文(かんぶん)9年京都に生まれる。名は希賢。字(あざな)は善蔵。山崎闇斎(やまざきあんさい)門下の佐藤直方(さとうなおかた)に師事して程朱(ていしゅ)学を学んだが、やがて陽明学に転じ直方に絶交された。のち和解。京、大坂、江戸と居所を転々とかえ、大坂では平野含翠(がんすい)堂で講師となり、さらに江戸に出て学塾明倫(めいりん)堂を開くなど陽明学派再興に力を尽くした。晩年は病を得て帰京し、延享(えんきょう)元年5月25日、76歳で死去した。著書には『標注伝習録(ひょうちゅうでんしゅうろく)』(1712)『日用心法(にちようしんぼう)』『大学俗解(だいがくぞくかい)』など数多くある。
[上田 穣 2016年7月19日]
(柴田篤)
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…上巻は40歳代の語録,中巻は主に50歳代の書簡,下巻は主に50歳代の語録。日本では,三輪執斎の《標註伝習録》が広く読まれ,陽明学の普及に大きな貢献を果たした。【吉田 公平】。…
…日本においては陽明学は不幸な出発を強いられたのである。江戸初期には中江藤樹,熊沢蕃山,中期には三輪執斎(みわしつさい)(1669‐1744)が出て陽明学を宣揚したが,古学派,古文辞学派におされてふるわなかった。しかし,幕末維新期を迎えると,陽明学は思想運動としてもっとも盛り上がり,佐藤一斎,大塩平八郎(中斎)が活躍したが,とりわけ佐藤一斎門下から維新期に活躍した陽明学者が輩出した。…
※「三輪執斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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