江戸後期の儒学者。享保(きょうほう)17年大坂に生まれる。通称は徳二。名は積徳。字(あざな)は処叔(しょしゅく)。父は懐徳堂(かいとくどう)の2代学主中井甃庵(しゅうあん)(1693―1758)。兄は竹山(ちくざん)。五井蘭洲(ごいらんしゅう)に師事し、程朱(ていしゅ)学を主とする道学を学ぶが、その学風は折衷学的であった。1766年(明和3)大坂・和泉(いずみ)町に学塾水哉館(すいさいかん)を開いて教授した。兄竹山に比べ交際範囲は少なく、もっぱら研究と著述に従事した。また蘭学にも興味を示し、医者兼天文学者麻田剛立(あさだごうりゅう)と交わり、解剖所見として『越俎弄筆(えっそろうひつ)』(1773成立)をまとめた。そのほか多数の著述があるが、代表作に『七経逢原(しちけいほうげん)』『七経雕題略(ちょうだいりゃく)』『年成録(ねんせいろく)』などがある。文化(ぶんか)14年2月15日、86歳で没した。
[上田 穣 2016年6月20日]
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江戸中期の大坂の儒学者。名は積徳,字は処叔,通称は徳二。履軒幽人,天楽楼主人などと号した。甃庵の次男で竹山の弟。父および五井蘭洲に師事,才識卓抜,経義に精通した。塾を水哉館という。社交を好まず,経旨に沈潜し《中庸》を重視,また古韻を研究した。著書は《七経雕題(しちけいちようだい)》《七経逢原》《諧韻瑚璉》《履軒古韻》《水哉子》《越俎弄筆》《安良満保志》《弊帚》などがある。
執筆者:水田 紀久
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…日本では1873年(明治6)から太陽暦が採用されたが,一部の人たちにはそれ以前にも太陽暦は知られていた。古くは戦国時代の末ころよりキリシタンの人々に利用されていたが,江戸時代の本多利明は太陽暦の便利さを説いているし,同じころ,中井履軒や山片蟠桃は太陽暦の見本を作っていた。1795年には太陽暦の1月1日に蘭方医大槻玄沢によってオランダ正月が祝われた。…
※「中井履軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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