翻訳|vampire
人や動物の生血を吸うとされる魔物(死霊,死者の姿をとることが多い)の総称。これらが,バンパイア,バンピールなどの名に統一・固定されるのは,18世紀以降のヨーロッパにおいてであるが,それ以前にも,またヨーロッパ以外の国々でも,類似の存在は広く知られていた。幼児をさらってその血をすするギリシア神話の女怪ラミア,若者を誘惑して生血を吸うエンプーサ,淫奔残忍なテッサリアの巫女,ポルトガルのブルーカ,アラビアのグール,ドイツのドルドなどがこれである。東洋では日本にも伝来したインド原産の荼枳尼(だきに)天や鬼子母神が知られている。
近代的な吸血鬼表象は啓蒙主義時代の所産であった。〈吸血鬼の数は18世紀が一番多かった〉(K. セリグマン)と称されるのは,かならずしもこの世紀に吸血鬼が多発したということではなくて,科学と魔術とが分かたれていないフォークロア的世界の闇(やみ)のなかから,啓蒙主義がその光に照らして,悪しき死者たる吸血鬼のイメージを次々に明確に対象化しえたという意味にほかならない。正しくは,退治された吸血鬼の数が一番多かったのである。18世紀には,吸血鬼をめぐる哲学的論争がしきりに戦わされた。ボルテール,ドン・カルメDom Augustin Calmet(1672-1757),教皇ベネディクトゥス14世などが啓蒙主義的理性の立場から,吸血鬼現象を社会学的・病理学的・心理学的不安もしくは疾病として解明しながら,土俗的後進地に蟠踞(ばんきよ)する吸血鬼信仰をあばき,追いつめ,退治する。一方,19世紀初頭のロマン主義者はふたたび吸血鬼を擁護し,ノディエやゲレスが,吸血鬼の心的実在性をめぐる論陣を張ったが,産業社会の趨勢はすみやかに人々の意識から吸血鬼を消し去った。
理性に退治された吸血鬼は,しかし19世紀文学芸術の虚構の中から息を吹き返す。メリメやゴーゴリの吸血鬼は,なお土俗的世界にとどまったが,1816年夏ジュネーブ湖畔でシェリーらが恐怖物語の創作を競い合った際に,M.シェリーの《フランケンシュタイン》とともに生まれたバイロンの未完成作《断片》,およびポリドリJohn William Polidori(1795-1821)の《吸血鬼》(1819)といった作品を伴って,吸血鬼はしだいに近代市民社会の内部に忍び寄ってくる。ライマーMalcolm Rymer(1814-84)の作とされる《吸血鬼バーニ》(1847)はその後の代表作だが,さらに19世紀末には,破滅的な性的誘惑のメタファーたる〈残酷な美女〉〈宿命の女(ファム・ファタル)〉として,女吸血鬼のイメージがしきりに出現した。男たらし,妖婦をバンプvamp(バンパイアの略)と呼びならわすゆえんである。中でもレ・ファニュの《カーミラ》(1872)は,恐怖美に満ちた女吸血鬼をめざましく描いた作品である。一方,1897年にはストーカーの《吸血鬼ドラキュラ》が出て,吸血鬼はロマン主義的な孤独で〈高貴な旅人〉としてふたたび男性化される(ドラキュラ)。以来吸血鬼はそのときどきに性を変えながら映画・演劇を通じて大衆化されることになる。R.バディム監督《血とバラ》(1960)がエロティックな女吸血鬼を描く一方で,ムルナウ監督《ノスフェラトゥ》(1922),T.フィッシャー監督《吸血鬼ドラキュラ》(1958)は,ストーカーの原作から反対に男性的吸血鬼像を造型した。
執筆者:種村 季弘
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東ヨーロッパを中心に昔から恐れられている魔物。夜、墓の中から、凶悪犯人、自殺者、破門者、早く埋葬されすぎた者などの死体がよみがえって現れ、長く伸びた犬歯によって熟睡している人の生き血を吸い、吸われた人はこの夜の訪問のとりことなり、死ねば吸血鬼に変じるというのが一般的な伝説である。英語ではバンパイアvampireといい、この語はまた中南米に生息する吸血コウモリを意味する。語源的にはトルコ語のuber(魔女)であり、ウクライナ語ではuper、ブルガリア語ではvapir、セルビア語ではvampirとなって西欧に伝わった。吸血鬼の姿には諸説あるが、手のひらに毛が生えていて、碧眼紅毛(へきがんこうもう)、兎唇(としん)などという。これを永久に絶やすには、ただ殺しただけではだめであって、四つ辻(つじ)に埋め、心臓に杭(くい)を打ち込まなければならない。吸血鬼除(よ)けとしては、鐘、明かり、ニンニクがある。
吸血鬼が文学に登場するのは、ロマン派の文学がおこった18世紀末以降で、ゲーテの『コリントの花嫁』(1797)、ボードレールの『吸血鬼』(1855)、ル・ファニュの『カーミラ』(1872)などがあるが、もっとも有名なのはブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(1897)であり、映画化もしばしばなされている。舞台の中心地トランシルバニアはこの伝説に絡んで東欧の観光地になっている。
[船戸英夫]
『種村季弘著『吸血鬼幻想』(河出文庫)』
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…また他方では,新興のスウェーデン映画がデンマーク映画に代わって北欧を支配するようになり,第1次世界大戦後のデンマーク映画は急速に衰弱していく。《密書》(1913)でデビューした怪奇趣味のベンヤミン・クリステンセンBenjamin Christensenは,スウェーデンで彼の最高傑作として知られる《魔女》(1919‐21)を撮り,それからドイツをへてハリウッドにいき,《悪魔の曲馬団》(1926),《妖怪屋敷》(1928),《恐怖の一夜》(1929)といったアメリカ製の〈ホラー映画〉に北欧の神秘主義から生まれたその怪奇趣味を埋没させ,また,《裁判長》(1918)と《サタンの書の数頁》(1919)でデビューしたカール・ドライヤーも,スウェーデン,フランス,ドイツをへて(怪奇映画の傑作として知られる《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスの合作映画である)戦後になってやっとまたデンマークに戻るまで孤高の歩みを続けることになった。 その後は60年代に脚光を浴びたヘニング・カールセン(《飢え》1966,《花弁が濡れるとき》1967),70年代に登場したイェンス・ヨーゲン・トースン(《クリシーの静かな日々》1970)といった監督の名が記憶される。…
…つづいて,D.W.グリフィス監督の《イントレランス》(1916)の影響をうけ,四つの時代における人間の背信行為を描いた《サタンの日記の数頁》(1919)を撮る。《牧師の未亡人》(1920)はスウェーデンで,《ミヒャエル》(1924)はドイツで,《あるじ》(1925)はデンマークに戻って,《裁かるるジャンヌ》はフランス,トーキー第1作の《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスというぐあいに国際的監督として活躍した。ドイツの〈室内劇(カンマーシュピール)〉,フランスの〈アバンギャルド映画〉などの影響を吸収しつつスタイルを模索するが,終始一貫していたのは〈精確なセット〉と端役に至るまでの出演者の〈顔〉を重視し,観客に映像の細部のニュアンスまで感じとるよう緊張を強いる画面づくりで,その緊張度は作品を追って高まった。…
…本来スウェーデンボリに傾倒する神秘家だったが,妻を失ってからは暗い運命論にひかれ,《アンクル・サイラス》(1864)や《曇りガラスの中》(1872)など晩年の作品は自身の心の崩壊の告白録とも見られる。とくに後者に収められた女吸血鬼の物語《カーミラ》は,後に現れるB.ストーカーの《ドラキュラ》(1897)ほかの吸血鬼ロマンスの先駆となった。【荒俣 宏】。…
※「吸血鬼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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