日本大百科全書(ニッポニカ) 「吾妻山遺跡群」の意味・わかりやすい解説
吾妻山遺跡群
あづまやまいせきぐん
横浜市都筑(つづき)区中川町大塚遺跡と大棚町歳勝土(さいかちど)遺跡を中心とする遺跡群で、鶴見川の一支流に臨む比高40メートルほどの台地上にある。大塚遺跡では弥生(やよい)時代中期後半(宮ノ台期)の環濠(かんごう)集落の全貌(ぜんぼう)が明らかにされた。長径200メートル、最大幅130メートルの繭形に周る環濠内に90基の竪穴(たてあな)住居址(し)が3ブロックをなして分布している。竪穴の重複関係などにより3小期の変遷が考えられることから、おのおの10戸前後からなる三つの集団で構成された集落とみられる。環濠は幅4メートル、深さ1.5~2メートルの断面逆台形のもので、新旧2本がある。この集落の墓地が南西に続く歳勝土遺跡に設けられた。25基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が小支谷の谷頭縁辺部とその両側の台地上に3グループをなして分布しており、未調査の部分にさらに数基の存在が予測される。各墓は中央に土壙(どこう)1基があるほか、周溝内にも壺棺(つぼかん)や土壙による埋葬が行われた。溝内からは供献された宮ノ台式の壺、鉢が出土した。このような墓地を伴い環濠で防御された大塚の集落は、周辺の小集落を包括した集落群の結合のかなめをなす拠点的な存在であったとみられる。歳勝土の麓(ふもと)の歳勝土南遺跡では、宮ノ台期の方形周溝墓を伴う集落址が確認されている。しかし弥生後期初頭にはこの拠点集落は解体し、数戸の小集落となって終焉(しゅうえん)する。それと相前後して歳勝土の台地に集落が出現し、後期中葉に及ぶ10基の住居址と方形周溝墓1基が明らかにされているが、なお未調査の部分に数基の住居址があるものとみられる。また歳勝土から大塚の南半にかけては、縄文時代中期の大規模な集落址でもあり、さらに中世の遺構として大塚の台地上に1辺19メートル、高さ2メートルの方形の塚1基、歳勝土の南斜面に火葬蔵骨器(古瀬戸瓶子(へいし)1、常滑(とこなめ)壺2)が存在した。
[岡本 勇]