日本歴史地名大系 「出水郡」の解説 出水郡いずみぐん 面積:二一七・七九平方キロ(境界未定)東(あずま)町・長島(ながしま)町・高尾野(たかおの)町・野田(のだ)町県の北西部に位置する。高尾野・野田の二町は九州本土にあり、東・長島の二町は本土二町の北西方、黒之(くろの)瀬戸を挟んで阿久根市と対峙する長島を中心に諸浦(しようら)島・伊唐(いから)島・獅子(しし)島などの島々で構成される。本土では東は出水市、南は薩摩郡宮之城(みやのじよう)町・東郷(とうごう)町・西は阿久根市に接し、北は八代海に面する。島嶼部は北・東を八代海、南・西を東シナ海に囲まれ、長島海峡を挟み北西には熊本県の天草(あまくさ)諸島を望む。本土二町の南半は北薩第一の高峰紫尾(しび)山(一〇六六・八メートル)を主峰とする紫尾山系の山地で、山麓部には野田川・高尾野川などが形成した扇状地が広がる。ほぼ中央部をJR鹿児島本線・国道三号などの幹線交通路が横断し、八代海に面した北端部には干拓地が開ける。島嶼部はほとんどが安山岩からなり、島島の大半が丘陵地で占められ、海岸線は一般的に複雑、とくに長島の北西部では典型的なリアス海岸がみられる。長島は昭和四九年(一九七四)の黒之瀬戸大橋開通によって本土(阿久根市)と結ばれ、天草との間にはフェリーも就航している。近世には現在の出水市・阿久根市域も当郡のうちで、当時は南は高城(たき)郡・薩摩郡・伊佐郡、東は伊佐郡、北東は肥後国と接し、北と西は海に面していた。また古くから天草諸島とのつながりが深かった長島など島嶼部は、永禄(一五五八―七〇)頃まで肥後国天草郡に属し、現阿久根市南端の大川(おおかわ)地区も中世には高城郡のうちであった。名博本「和名抄」にはイツミと訓があり、出水は和泉とも書いた(薩摩国建久図田帳など)。なお「出水風土誌」によると出水平野の周辺台地の末端に豊富な湧水があることが郡名の由来という。〔古代〕「和名抄」によれば山内(やまうち)・勢度(せと)・借家(かりや)・大家(おおいえ)・国形(くにがた)の五郷からなっていた。天平八年(七三六)薩摩国正税帳(正倉院文書)の断簡の一つが当郡に関して、中間表示から末表示、および郡司位署の一八行分を伝えている。これによれば天平八年当時の大領は外正六位下勲七等の肥君(名欠)、少領は外従八位下勲七等の五百木部(名欠)、主政は外少初位上勲十等の大伴部足床、主帳は無位の大伴部福足で、その姓からみていずれも肥後系の人物である。ところで南隣の高城郡に肥後国からの計画的移民が行われたことが確実であるのに対して、当郡への移民は確認できない。これは当地域がすでに七世紀段階において肥後国の影響下にあり、公民の世界として位置付けられていたためと考えられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by