山門院(読み)やまといん

日本歴史地名大系 「山門院」の解説

山門院
やまといん

古代の出水郡内に成立したと考えられる院で、領域は現在の高尾野たかおの町・野田のだ町を含み、さらに出水市の北西部から阿久根市の北部に及んでいたと思われる。一四世紀半ば頃には院内はおおむね野田川を境として東方(現高尾野町・出水市)と西方(現野田町・阿久根市)に分れ、東方には高橋たかはし名や針原はりはら村・竹原たけはら(以上現出水市)が含まれており、ほか史料には市来崎いちくざき高柳たかやなぎ(現出水市)内野々うちのの横峯よこみね(現高尾野町)などの地名が散見し、同じく西方には多田ただ名・脇本わきもと(現阿久根市)別府べつぷ野角のずみ青木あおき(現野田町)などがあった。院内の木牟礼きのむれ(現高尾野町)は、薩摩・大隅・日向三国の守護に補任された島津家初代忠久が建久年中(一一九〇―九九)下向に先立って家臣の本田貞親に築かせた城とのいわれをもち、島津氏菩提所感応かんのう寺・同祈願所山内やまうち(以上現野田町)ほか、加紫久利かしくり神社(現出水市)紫尾しび神社(現高尾野町)などの寺社があった。なお承久三年(一二二一)七月二七日の官宣旨写(国分文書)や観応三年(一三五二)二月日以前に作成された安楽寺領注進状案(太宰府天満宮文書)などにみえる山門庄は当院のことではなく太宰府天満宮安楽寺領老松おいまつ庄のことをさしている。

薩摩国建久図田帳によれば田積は二〇〇町、この二〇〇町は老松庄二四町四段・公領一七五町六段とからなり、公領は島津庄寄郡の一つで光則(名)一三三町六段・弁済使分二七町・高橋(名)一五町で構成されていた。承久三年八月二一日の薩摩国庁下文(旧記雑録)によれば、当院は八幡新田宮放生会において「自橋本至于宮原中」の道普請ほか騎兵一人・出馬一疋・松一〇〇把・相撲二人などを負担、また弘安七年(一二八四)一一月日の天満宮・国分寺恒例神事次第(国分文書)では天満宮・国分寺(現川内市)の正月の吉祥御願では飯八斗・餅四〇枚・炭一古ほか、二月の御霊会では霊供米二升・騎兵一人・競馬一疋・相撲二人ほかを負担していた。

〔島津氏と惣地頭職〕

当院惣地頭職は島津忠久以後、忠時・久時(文永二年六月二日「島津忠時譲状案」島津家文書)、忠宗・貞久(文保二年三月一五日「島津忠宗譲状」同文書)と相伝された。貞久は元徳三年(一三三一)一二月五日当院ほかを嫡子生松丸(宗久)に譲っている(「島津貞久譲状案」同文書)。しかし宗久が早世したため、延文四年(一三五九)四月五日、貞久は松浦女房に山門院内三ヵ村と脇本村を、大輔局に青木原村をそれぞれ一期分として譲与し(「島津貞久譲状案」同文書)、貞治二年(一三六三)四月一〇日、これらの一期分を除いた当院を薩摩国守護職などとともに総州家初代師久に譲っている(「島津貞久譲状案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山門院の言及

【野田[町]】より

…鹿児島本線,国道3号線が通じ,JR野田郷(のだごう)駅を中心に市街地が発達する。中世は山門院(やまとのいん)野田郷に属する。米作およびタバコ,ネーブルオレンジなどの栽培が行われ,肉牛飼育,養豚,養鶏が盛んである。…

※「山門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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