日本大百科全書(ニッポニカ) 「哀牢」の意味・わかりやすい解説
哀牢
あいろう
中国、漢代の西南夷(い)の一種。その建国年代は紀元前2世紀の後半にさかのぼると思われる。紀元後47年哀牢国王賢栗(けんりつ)が後漢(ごかん)の軍隊に敗れ、51年には後漢に帰属した。69年明帝は、その地に哀牢、博南の2県を置き、益州郡西南都尉所領の6県とあわせて永昌郡に属させた(ほぼ雲南省の保山、永平2県の地にあたる)。哀牢の土地は肥沃(ひよく)で、五穀、蚕桑(さんそう)に適し、早くからインド、西アジアとも通交し、仏教も行われ、良質の綿布や綾錦(あやにしき)を産した。94年には大秦(たいしん)の使節が、97年と120年にはたん(たん)国王の使節が、この地を経由して中国に至ったことは、哀牢(永昌郡)が1世紀末から2世紀初葉にかけて、中印交通の要衝であったことを示している。
[陳 荊 和]
『藤田豊八著『東西交渉史の研究 南海篇』(1932・岡書院)』