東西交渉史(読み)とうざいこうしょうし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東西交渉史」の意味・わかりやすい解説

東西交渉史
とうざいこうしょうし

世界史とくにユーラシア大陸史において東洋と西洋との関係を対象とする史学。「東」は東アジア(中国)をさし、「西」は西アジア(おもにイラン)とその西方に隣接する地中海地域、ローマ帝国をさし、時代によってはヨーロッパをも含む。インド亜大陸を経由する交渉も含める。研究対象は、東西間の交通、政治的接触、商業活動およびこれに伴う文化の伝播(でんぱ)、交流、受容のあり方などを含む。

[佐口 透]

機能と体系

東アジア・中国と西アジアの二大文明圏は互いに異質的であり、地理的にもきわめてかけ離れ、しかも、その中間には高峻(こうしゅん)な山系、荒涼たる砂漠、オアシス耕地、さらには草原を含む乾燥地帯があり、両世界間の交通は非常に困難であった。しかし、先史時代から、遠い異国の珍奇な物産にあこがれ、利益を追求する商人は、危険を冒して、はるか東方や西方の世界へそれぞれ赴こうと努めた。しかし、彼ら自身が目的国にたどり着くことは困難であって、その場合、中間地帯の遊牧民やオアシス住民がその仲介をした。これが中継商業のおこりであり、商品物産のみならず、文化も中継された。これが東西交渉の基本的な形態であった。

 交流の経路は、主として中央アジアを経由する陸路と、東南アジア、インド、イランの海港を経由する海路があり、時代によって盛衰があったが、概して陸路の交通が安定していた。東西貿易の品目は珍奇な特産物や上流階級の奢侈(しゃし)品で、たとえば中国の絹、陶磁器、茶、東南アジアの香料、シベリアの毛皮、中央アジアの宝石(ルビーなど)と、西方のガラス器、金属器、毛織物などで、西方では中国の絹、東南アジアの香料がとくに珍重された。これらの物産は東西交通路上のオアシス住民が中継して交易される場合が多かった。文化の交流では、西方から東方へ伝えられたものが顕著で、たとえばインドの仏教、イランのゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教、ローマ・カトリック教の東伝がある。中国から西方へは製紙術、火薬、羅針盤などが伝わったといわれる。

 さらに、東西交渉の分野には征服戦争と民族移動による交渉、接触、そしてその複合という形式もある。ユーラシア大陸では、4世紀におけるフン人のヨーロッパ侵入、8世紀におけるイスラムのイベリア半島進出、9世紀以降のトルコ人の中央・西アジア移動、13世紀におけるモンゴルの西方遠征、その後におけるオスマン朝の東欧進出などは東から西へ対して行われたものであり、その逆として、アレクサンドロス大王の東方遠征、十字軍のシリア遠征、16世紀以降におけるロシアのシベリア征服などがあげられる。このように、民族移動によって東西の世界は政治的、民族的、文化的に互いに多大の影響を受けた。

 東西交渉史は東西間における政治、経済、民族、文化の、接触、交流、伝播、変容の諸様相によって考察する歴史学の一部門であり、また、東西二大文明圏の中間地域社会の中継的役割をも重視する。

[佐口 透]

幹線ルート

東西交渉は、東アジアと西アジアおよび地中海世界という遠隔地間の交通、文化交流、中継商業を契機として行われるのであるから、交通路の役割が重要である。この交通路は海陸の二つがあり、陸路には2本の幹線ルートがあり、また、それから支線ルートも分かれていた。

(1)中央アジア・ルート 紀元前以来、中国から西域(せいいき)のオアシス都市を結んで、西トルキスタン、イラン、シリア、地中海東岸(ローマ帝国領オリエント)へ達するもので、中国特産の絹がローマまで運ばれたという意味で「絹の道」(シルク・ロード)と学者がよび、東西交通上、広く用いられた幹線陸路。このうち、中国辺境の敦煌(とんこう)を起点とし、タリム盆地の北縁に沿い、高昌(こうしょう)、亀茲(きじ)(クチャ)を経てカシュガルに達する道を天山北路とよび、盆地の南縁、崑崙(こんろん)山脈の北麓(ほくろく)に沿い、ロプノール地方、于闐(うてん)(ホータン)、ヤルカンドを経てカシュガルに達するのを天山南路という。カシュガルからはパミールを越えてサマルカンド、イランの諸地を経て地中海東岸に達し、さらに以西は、海路で、あるいは陸路では小アジアを経て、ローマ帝国に到達する。このルートは紀元前2世紀、張騫(ちょうけん)の西方旅行によって知られ、『漢書』西域伝に詳しく記されていて、シルク・ロードの中枢ルートであり、「オアシス・ルート」ともよばれる。また、サマルカンドからアラル海、カスピ海の周辺を北西上して、ボルガ川、黒海へ達するルートは副幹線であった。タリム盆地はしばしば中国の勢力圏内に置かれ、西トルキスタンは古代はイラン人の領域であり、のちにトルコ人の領土となった。このシルク・ロード世界の西半を初めて開拓したのはアレクサンドロス大王の東征であって、それに伴ってヘレニズム世界が出現した。このルートをたどって、ローマ帝国、アケメネス朝およびササン朝ペルシアの芸術、文化、西アジアの諸宗教、とくにイスラムの文化が中国に伝来し、モンゴル帝国期には中国と西アジアを緊密に結ぶ幹線ルートとして機能を発揮した。マルコ・ポーロも元朝への旅行の往路はこのルートを歩んだ。このルートの支線として、パミール南東方から北インドへのルートが開拓され、古代仏教東漸の道となった。

(2)北アジア草原ルート モンゴリアジュンガリアカザフスタンなど北アジアの草原地帯、とくに天山の北麓の草原を東西に経由する交通路も古代から重要な役割を演じた。この地域は遊牧民の居住圏で、厳寒期を除いては、騎馬旅行、隊商の往来に便利で、政治が安定していれば商品輸送にもっとも安全であった。前5世紀以降、黒海の北方草原にいたスキタイの金属器(武器と装飾品)が北アジアへ伝わったのはこのルートによる。匈奴(きょうど)、突厥(とっけつ)、ウイグルなどの北アジア遊牧民は中国の絹を入手し、西方へ転売したり、シベリアの毛皮を西方へ輸出して商利を収めた。モンゴル帝国時代に、プラノ・カルピニ、ウィリアム・ルブルクはこの草原ルートを経てヨーロッパからモンゴリアのカラコルムのモンゴル宮廷へ往復の旅行をし、マリニョリもこのルートで大都(だいと)(北京(ペキン))へ旅した。

(3)海洋ルート 漢代には中国の南方諸港からインドシナ半島沿いで東南アジアの各港を経てインド沿岸に達する沿海ルートが開かれており、さらにインド西岸から紅海、ペルシア湾沿岸へ航路があった。東南アジアから崑崙舶(こんろんはく)(マレー黒人船)、イランから波斯(はし)(ペルシア)舶、インドから婆羅門(ばらもん)舶の名で商船が中国へ来航した。この海路は近世のインド洋を経由する中国と西アジア間の海路と大差はなかった。しかし、造船術や航海術の未発達であった古代の海上交通は気象条件に左右されたから、航海はかならずしも安全ではなかった。また、前1世紀にローマ帝国は紅海航路を発達させ、この方面からインドや中国への貿易を進めた。紅海からインド洋までの海洋は、ローマの文献ではエリトラ海とよばれ、『エリトラ海案内記』という案内書も書かれていて、当時の通商貿易の実状を伝えている。古代インドは東南アジアとの海上航路を開拓し、移民を送ったり、仏教、ヒンドゥー文化を植え付けた。

[佐口 透]

東西交渉の発展

前2世紀から、中国とイラン民族世界との文化交流があり、漢、南北朝、隋(ずい)・唐時代の中国に、インドの仏教や西アジアの文物、思想が伝わった。隋・唐帝国は世界性をもっていたので、ササン朝ペルシアや中央アジア諸民族文化の中国伝播が顕著であった。突厥、ウイグルなどの北アジア遊牧国家も、中国と西アジア間の文化交流上に役割を演じた。西突厥がビザンティン帝国と一時的に外交関係をもったことがあった。7世紀から8世紀にかけて、西アジアではイスラム帝国が出現し、ペルシアを征服し、西トルキスタンへ進出するという変動が起こり、10世紀初頭に唐帝国が滅び、さらに北アジアのトルコ人が中央アジアに移動して、トルキスタンを成立させた。ここに東西交渉は、中国と西アジアおよびイスラム世界との接触という新局面となった。イスラムの商人は陸路ならびに海路で中国へ通商に来て、とくに海上貿易権をほぼ独占し、広州を含む中国の南方港湾都市もその余波を受けて繁栄し、また、中国にイスラム教を伝えるきっかけとなった。西トルキスタンではイスラム化したトルコ人諸王朝が興亡し、東アジアとの交渉は顕著ではなかった。

 他方、11世紀末から始まったヨーロッパの十字軍運動は地中海東岸でイスラム勢力と衝突し、中世ヨーロッパと西アジア間の交渉を盛んにしたが、イスラム文明がヨーロッパに与えた影響力はきわめて大きかった。13、14世紀にはモンゴル帝国が出現し、東アジアから西アジアを経てロシア、ローマ、ヨーロッパに至るまで密接な交流がみられ、東西交渉史上のあらゆる様相、問題が展開した。モンゴル帝国崩壊後は東西交通は減退し、とくに15世紀にオスマン朝が出現してヨーロッパと西アジアとの直接交渉を阻害したので、ヨーロッパ人は別のルートで東アジアとインドを目ざすようになった。15世紀末にはアメリカ航路、アフリカ南端を経由するインド航路の発見があった。とくにポルトガル人、スペイン人、オランダ人、ついでイギリス人、フランス人がインド洋航路で直接東アジアの地へ到達し、東西交渉はしだいに海上からの直接交渉の様相を呈してきた。しかし、中央アジア路は衰えたのではなく、モスクワ国家ついでロシア帝国の東方発展に伴い、ロシアと中央アジアとの商業が盛んとなり、また、シベリア・ルートが新たに開拓され、ロシアと東アジアとの接触が始まった。18~19世紀の東西交渉はヨーロッパ勢力のアジアへの進出、支配という形で進行し、海路からの交渉が主流となったのである。

[佐口 透]

東西交渉史の終り

東西交渉史という用語は日本の東洋史学者によって創唱されたもので、ヨーロッパや中国の学者たちにはほとんどなかった。ここで東とは東洋すなわち中国を中心とする東アジア世界をさし、西とは西欧、ローマ帝国領(ビザンティン)と西アジア(オリエント、イラン)などを含むものと考えられるが、自らを世界の中心(中華)と考えていた中国人には東西の交渉という観念はなかった。中国の君主、支配層は西方遠隔地の珍貴な物産や高度の文物にあこがれて、これらを求めた。そのため中国の大商人や西方の隊商が東西間を盛んに往来して珍貴な物産を交易した。このような東西中継による文物の交流を一つの歴史的現象と位置づけ、その研究に集中的業績をあげたのが、日本の白鳥庫吉(くらきち)、桑原隲蔵(じつぞう)、藤田豊八(とよはち)、羽田亨(はねだとおる)、前嶋信次(まえじましんじ)(1903―1983)、羽田明(はねだあきら)(1910―1989)、松田壽男(ひさお)(1903―1982)、榎(えのき)一雄(1913―1989)、佐口透(1916―2006)、佐藤圭四郎(1919―2005)、山田信夫(1920―1987)、護雅夫(もりまさお)(1921―1996)、長沢和俊(1928―2019)ら、20世紀の東洋史学者たちであった。シルク・ロード史観は日本の東洋史学の独自な研究分野であって、西欧や中国の東洋史研究ではほとんどみられないものであった。

 19世紀以降、ロシアとイギリスが西方勢力の代表として清朝中国の西北辺疆(へんきょう)と直接国境を接触するに至って、西方世界は中国に対し優位を占め、東西は一つに交わり、過去における対等の東西交渉は終りを告げた。

[佐口 透]

『江上波夫編『図説世界文化史大系26 東西文化の交流』(1960・角川書店)』『松田壽男著『東西文化の交流』(1962・至文堂)』『護雅夫・佐口透他編『東西文明の交流』全6巻(1970・平凡社)』『前嶋信次・加藤九祚編『シルクロード事典』(1975・芙蓉書房)』『小谷仲男著『大月氏(だいげっし)――中央アジアに謎の民族を訪ねて』(1999・東方書店)』『間野英二著『中央アジアの歴史』(講談社現代新書)』『加藤九祚著『中央アジア歴史群像』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「東西交渉史」の意味・わかりやすい解説

東西交渉史 (とうざいこうしょうし)

東方の中国を中心とする東アジアと,西方の西アジア・ヨーロッパとの,政治的・経済的・文化的交流の諸相を研究する歴史学の一分野。東西交通史,東西文化交流史ともいう。その叙述に,インドを中心とする南アジアと,東アジア・西アジア・ヨーロッパとの交流に関する記述を含ませる場合もある。東西交渉史の研究は,日本でも,比較的早くからその研究に着手され,特に1950年代以降急速に発達して,日本の東洋史学研究における代表的研究分野の一つとなっている。以下,その成果にもとづいて,東西交渉の歴史を概観する。

すでに先史時代から,東西の交流が行われていたことは,古代オリエントに起源をもつ彩陶(彩色文様のある土器)が,地中海沿岸から中国に至る広大な地域に分布していることからも明らかである。また中央アジアのバダフシャーン地方の特産物であるラピスラズリ(濃藍色の石。装身具などに使用)が,西アジアのシュメール人の都ウルの墓地から大量に出土したことによって,前3000-前2000年ころの中央アジアと西アジアの交流も証明されている。これらの初期の交流が,いかなるルートを利用して行われたものであるかは,あくまで推定の域を出ないが,前5世紀になると,ヘロドトス《歴史》に,黒海の北岸地方から東進して,ボルガ川,ウラル山脈を横切り,アルタイ山脈を経てさらに東方ないし東南方へと進む東西交通の一つの幹線ルートが明瞭に記録されている。この,北方の草原の遊牧地帯を東西に横断する交通路は,一般に,〈草原の道〉〈ステップ・ルート〉などと呼ばれるが,おそらく前5世紀以前から,ギリシア商人によって毛皮,金などの運搬路として利用されていたものであろう。またこのルートを経て,貴金属と動物意匠を特徴とする黒海北岸のスキタイ文化(前6~前3世紀中心)が東方へと伝播し,前3世紀の匈奴の興隆を促したにとどまらず,匈奴を仲介として,古代中国の軍事技術(騎馬戦術)や銅器の様式などにも種々の影響を及ぼしたことは,このルートの持った文化交流史上の重要性を物語る。さらに,このルートが諸方面との交流に利用されていたことは,前3~前2世紀ごろの遺跡と考えられるアルタイ山脈東部域のパジリク古墳群から,ペルシア産の絨緞,インド産の貝殻,中国産の絹布や青銅器などが出土していることからも明らかである。一方,中央アジア,西アジアのオアシス都市を結んで東西に走る〈オアシスの道〉〈オアシス・ルート〉〈シルクロード(絹の道)〉も,前2世紀の有名な張騫(ちようけん)の西方旅行以前からすでに利用されていたらしく,それに先立つ戦国時代の中国には,このルートを利用してホータン(于闐)地方原産の軟玉が伝えられ〈禺氏の玉〉〈崑崙の玉〉として珍重されていた。また前6世紀のアケメネス朝ペルシア帝国の東西への発展,前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征も,このルートの発達に大きな影響を及ぼしたものと考えられる。さらに東シナ海から東南アジア,インド,ペルシア湾,紅海の諸港を結ぶ〈海の道〉〈海上ルート〉も,すでに春秋戦国時代から利用されていたらしく,東南アジア,インド方面の真珠(〈江漢の珠〉),象牙,犀角などが古代の中国でも珍重されていた。またインド西岸とペルシア湾,紅海沿岸地方の間の交流も,はやくから沿岸航行を利用して行われていたらしい。

前2世紀の張騫の西方旅行と漢の西域経営は,〈オアシスの道〉を通じての東西の交流を活発にした。汗血馬と呼ばれる大宛の名馬や,ブドウ,ウマゴヤシ,ザクロなどの西方の物産が漢代の中国に輸入され,また中国の絹に代表される諸物産が西方のローマ人の世界へと運ばれ,中国は紀元前後のローマ人に〈絹の国Serica〉として知られるようになった。このルート上に位置するシリア砂漠のオアシス都市パルミュラの遺跡からも,漢代の綾や錦の断片が出土し,このルートがまさしく〈絹の道〉であったことを証言している。このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。その美的水準の高さがどの程度のものであったかは,正倉院の御物が最も明瞭に物語るところである。唐の都長安には多くの外国人が逗留し,長安は異国趣味にあふれた国際的都市としての様相を呈した。一方,このルートを通って,すでに6世紀の中葉には中国の養蚕術が東ローマに伝えられ,また中国の製紙法も,有名なタラス川の戦(751)を契機としてやがて西アジア,ヨーロッパへと伝えられた()。また6~7世紀における突厥(とつくつ)の勃興に伴って,天山北麓よりアラル海,カスピ海の北岸地帯を経て東ローマに至る〈草原の道〉も,〈オアシスの道〉と並んで再び脚光をあびるに至った。

 これに対して〈海の道〉は,前3世紀の末,当時〈番禺〉と呼ばれた現在の広東が中国人によって征服され,前2世紀後半にインドシナ半島の北部までが中国の領土となると,この番禺を中心に,中国人の南海貿易も開始され,紀元前後には,南海の商船が,犀角,真珠,象牙などの珍品を積んでこの港に到着した。一方,西方のギリシア人,ローマ人たちも,1世紀中ごろ以降,季節風を利用して盛んにインド洋に進出し,同じころには《エリュトラ海案内記》と題する,航海の実体験にもとづく南海地方の周航記も残されている。また2世紀後半には大秦王安敦,すなわちローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者と称する者がこのルートを利用してベトナムのフエ(順化)付近に到着したことが後漢の記録に見える。この〈海の道〉は,その後も東南アジア,インド,イランの商人たちによって盛んに利用されたが,特に8世紀以降,イスラム商人が海上貿易にも進出すると,その活躍によって,著しい発展を見せた。唐・宋時代の広州,泉州,交州,揚州などの諸港には多数の〈蕃客〉(外国人)が〈蕃坊〉(外国人居留地)に滞留して,一種の自治生活をおくり,中には宋・元交代期の有名なペルシア人イスラム教徒蒲寿庚(ほじゆこう)のように,巨万の富を背景に,中国の政治の舞台で活躍する者もあらわれた(市舶司)。イスラム商人はペルシア湾岸のシーラーフ,バスラ,ウブッラを中心に中国,インドと西アジア間の貿易を独占する一方,またアレクサンドリア,フスタート(カイロ)を中心に地中海貿易をも制圧して東西貿易の利益を独占した。バグダードを中心とするイスラム文化の発達は,東西貿易によるこのような富の蓄積を背景にして達成され,その高度の文化は,12~13世紀の十字軍運動を通じてもヨーロッパに伝えられ,ルネサンス期に至るヨーロッパの文化の発達に少なからぬ影響を及ぼした。

13世紀に東アジア,中央アジア,西アジア,北アジアとヨーロッパの一部を領有するモンゴル帝国が成立すると,いわゆるパクス・タルタリカ(〈タルタル人=モンゴル人の平和〉)を背景に,〈草原の道〉(サライ経由)や〈オアシスの道〉〈海上の道〉はいずれもかつてないほどの活況を呈し,東西世界の交流が著しく推進された。マルコ・ポーロイブン・バットゥータ,プラノ・カルピニ,ギヨーム・ド・ルブルクのごとく,ヨーロッパや西アジアから直接に東アジアを訪れる者も続出し,彼らの旅行記や国際貿易の指南書は,ヨーロッパや西アジアの人々の東アジアに関する知識を飛躍的に増大させるのに役だった。この時代,イタリア商人の活躍はめざましく,彼らはモンゴル帝国のほぼ全域に進出して,莫大な富をイタリア諸都市に蓄積した。この富の蓄積なくしては,おそらくイタリア・ルネサンスの開花も見られなかったであろう。また唐代以来,海上の道を通じて広州などの港町に進出していた西方イスラム教徒は,モンゴル帝国の成立とともにますます中国へと進出し,〈元時,回回(イスラム教徒)天下に遍(あまね)し〉といわれるまでに至った。元・明時代に,これらのイスラム教徒は,天文学・地理学などイスラム文化の精華を中国に伝えたが,それらは彼らとともに流入したイスラムそのものと同様,中国の伝統的文化に大きな影響を及ぼすまでには至らなかった。一方,この時代,中国からは,宋代の発明にかかわる羅針盤火薬のほか,製陶や印刷の技術,絵画の手法などが西アジアを経てヨーロッパに伝えられ,特に絵画の手法は,西アジアにおける細密画(ミニアチュール)の発達をうながしたほか,ヨーロッパのルネサンスの美術の誕生にも影響を及ぼした。モンゴル時代に,東西を結ぶ〈オアシスの道〉の中央に位置したイランのタブリーズで,中国・ヨーロッパの両世界を視野に収めた,世界最初の文字どおりの世界史であるラシード・アッディーンの《集史》のごとき歴史書が著されたことは,モンゴル帝国の成立によって,東西の両世界に関する情報が,いかにはじめて統一的・総合的に把握されることが可能になったかを,最も雄弁に物語るものである。また14世紀におけるティムール帝国(朝)の成立は,その首都サマルカンドを中心とする〈オアシスの道〉を通じての東西世界の交流をますます活発化し,帝国の中心地サマルカンドとヘラートにはティムール朝文化と呼ばれる高度の宮廷文化が発達した。

15世紀末のポルトガルのアフリカ南端喜望峰回航によるインド洋への到達は,東西交渉の歴史に新時代を開くものであり,大西洋とインド洋を結ぶこの新航路を利用してまずポルトガル,ついでオランダ,イギリス,フランスがインド・東南アジアに進出してこの地の植民地化に成功し,中でもイギリスは,18世紀の中葉,〈海の道〉を完全に制覇してアジア貿易による莫大な富を集積した。この,東洋航路の発見は,〈海の道〉の利用を従来よりもはるかに大規模なものに変質させ,またこれに伴ったイエズス会士のアジアにおける布教活動などによって,アジアに関するヨーロッパ人の知識は急速に増大した。しかし,しばしばいわれるように,この発見の影響を受けて,内陸の国際貿易路がにわかに衰えていったと考えるのは誤りである。特に,16世紀以降,新たに勃興したロシアの勢力が〈草原の道〉を利用して東方に進出すると,ロシアと中央アジア・中国との間に新たな通商関係が成立し,内陸アジアをめぐる国際貿易は,衰退どころかむしろ活発化していた事実に注目しなければならない。

この時代には,イエズス会のマテオ・リッチ(利瑪竇),アダム・シャール(湯若望),フェルビースト(南懐仁)らによって,ヨーロッパで発達した小銃・大砲などの鋳造技術や暦学,地理学,天文学,数学などの科学的知識が中国に導入され,またイエズス会のカスティリオーネ(郎世寧)によってヨーロッパの絵画の画法や建築の様式も中国に紹介された。これらのヨーロッパの実学は,中国の伝統的な学問の中に巧みに吸収され,やがて徐光啓の《農政全書》《崇禎暦書》,趙士楨の《神器譜》,李自珍の《本草綱目》などを生んだ。しかし西方の宣教師たちの本来の目的であった宗教それ自体は,いわゆる〈典礼問題〉の発生などによってその布教を阻害され,遂に中国人の伝統的世界観をくつがえすまでには至らなかった。しかし,この〈典礼問題〉をも一つの契機として,ヨーロッパでは中国の習俗についての関心が深まり,18世紀のパリの宮廷にいわゆる〈中国趣味〉を流行させたほか,モンテスキューやボルテールによって,中国をはじめとするアジアの伝統的文明をヨーロッパの文明と比較・対照してその優劣を論ずる作業がこころみられている。そして当時のヨーロッパの体制を批判しようとしたそれらのこころみが,ヨーロッパにおける近代的精神と近代的国家の誕生に少なからざる影響を及ぼしたとすれば,以後の世界史の動向を決定した〈ヨーロッパの近代化〉に,その精神の面で,アジア側からも貢献がなされたと考えることは,おそらく当を得たものといえるであろう。東西世界の交流は,19世紀以降も,さまざまな形をとって展開される。しかしそれは,〈東西交渉史〉という,東西の両世界を明確に分かつことのできる時代に対してのみ有効な研究分野・研究方法の枠外にあり,ここでそれを論述することは,もはや無益の作業というべきであろう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東西交渉史」の意味・わかりやすい解説

東西交渉史
とうざいこうしょうし

東アジアと西アジア,ヨーロッパ間の交流,接触の歴史を扱う歴史学の一分野。世界最古の文明は,メソポタミアのチグリス川,ユーフラテス川の流域とナイル川やインダス川流域,さらにこれらの地域と遠く東に離れた黄河流域とに発達した(→古代オリエント文明インダス文明黄河文明)。これら 4地域の文明は,独自の発展を遂げた点も多いが,それでもまったく無縁であったとはいえない。4地域で発掘された新石器時代の彩文土器の文様が互いに酷似しているところから,同一起源説を唱える学者もあり,すでに有史以前から東西交渉が始まっていたものと考えられる。前5世紀の初め頃,最も高度な文明をもつ地域のあった黄河流域および中東地方,北インド,エーゲ海を中心とする諸地域には,内陸アジアを結ぶいくつかの陸路とシナ海,インド洋,ペルシア湾,紅海,地中海などを通る海路があった。一般に,前者を西域路 (→シルクロード) ,後者を南海路などと呼ぶ。これら両路を通じて,征服戦争,民族大移動,外交,通商が行なわれ,それらに伴い文化の伝播,交流,融合がなされ,東西交渉の歴史が形成された。しかし東方世界と西方世界が一応別個と考えられた東西交渉の歴史は,15世紀初期のヨーロッパ人の東航を境にして様相を一変し,新時代に入った。

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