喜連川宿
きつれがわしゆく
[現在地名]喜連川町喜連川 田町・河原町・台町・
上町・
仲町・
本町・下町・荒町
奥州街道の宿駅。前宿は氏家で駅間二里、次宿は佐久山(現大田原市)で二里三〇町三六間、江戸へ三三里二二町二〇間、下妻道鴻野山村(現那須郡南那須町)へ一里二六町半(宿村大概帳)。氏家宿から北東行してきた街道は早乙女村に入り、荒町で荒川を渡河、当宿を経て和田村・下河戸村と北上、下河戸村で江川を渡って佐久山宿に向かう。地元の伝承によると宿の起りは、宿の草分六人衆(小林家・津島屋・関屋・高塩神官家・柏屋・飯島家)が、文治二年(一一八六)塩谷惟広の喜連川入部の際に随行、根を下ろしたことに始まるという。江戸時代、奥州街道が通ることにより発達した。宿内の長さは北端の田町から南端の荒町まで一七町二〇間、その間に河原町・台町・上町・仲町・本町・下町の六町があった。地子免許はない。天保一四年(一八四三)の調べによると宿内人数一千一九八・家数二九〇。本陣は本町の上野太右衛門宅で建坪一一五坪、脇本陣は同町井筒屋宅で建坪五七坪。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の喜連川宿の言及
【喜連川[町]】より
…東北自動車道矢板インターチェンジに近い西部の丘陵地に大規模な工業団地が造成され,三菱自動車研究所が進出している。【千葉 立也】
[喜連川宿]
下野国の奥州道中の宿場で,喜連川氏の封地。古くは東山道すなわち奥州白河関へ抜ける街道にあたる。…
※「喜連川宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 