喜連川氏館跡
きつれがわしやかたあと
江戸時代当地一帯に五千石を領していた喜連川氏の居館。喜連川城跡のある丘陵東麓の高台にあり、東西約六〇間・南北約九〇間。現在町立体育館・公民館が建っている所が喜連川氏の居住部で、町役場庁舎の建つ敷地は役所跡である。
天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉は古河公方足利氏の庶流足利頼純の女(秀吉の妾、のち月桂院と号する)に、喜連川において三千五〇〇石を与え、同年この禄は嫡流足利義氏の女と婚姻して古河公方家を継いだ弟国朝(頼純の長男)に譲られた。国朝はのち下総古河から当地に館を移し、喜連川を称し、代々ここに居住した。国朝は文禄二年(一五九三)肥前名護屋(現佐賀県東松浦郡鎮西町)に秀吉を訪ねる途次安芸で没し、弟頼氏(頼純次男)が襲封。慶長四年(一五九九)二〇〇石を月桂院に割譲したが、同六年芳賀郡内で一千石を加増された。以後、尊信―昭氏―氏春―茂氏―氏連―恵氏―彭氏と続いた(寛政重修諸家譜)。なお彭氏のとき加増があったらしく、「寛政重修諸家譜」は彭氏の禄高を五千石とする。彭氏の後は熙氏―宜氏―縄氏―聡氏と続くが、明治元年(一八六八)聡氏の時、足利姓に復した。喜連川藩領の一七ヵ村は、喜連川村・葛城村・平三郎村・小入村・早乙女村、山苗代村・石関村・大槻村・越畑村・東乙畑村・西乙畑村(現矢板市)、松島村・鍛冶ヶ沢村(現氏家町)、文挟村・伏久村(現高根沢町)、七井村(現芳賀郡益子町)、芳志戸村(現同郡芳賀町)。表高五千石に対し実高は藩政末期の元治元年(一八六四)から明治二年の頃は、本田畑高五千六二〇石余・新田畑高二千三九八石余の計八千一九石余となっている(「旧采地塩谷郡芳賀郡内郷村高帳」秋元武夫文書)。
喜連川氏は古河公方の後裔として高い家格を誇るとともに、幕藩体制下に特殊な地位を与えられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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