嘉数村(読み)かかじむら

日本歴史地名大系 「嘉数村」の解説

嘉数村
かかじむら

[現在地名]宜野湾嘉数かかず一―四丁目・嘉数・真栄原まえはら・真栄原一―三丁目・佐真下さました

大謝名おおじやな村の南、宇地泊うちどうまい(比屋良川)牧港まきみなと川に挟まれた段丘上にある。「おもろさうし」巻一五の四六に「一 わかいきよ(若い子が)/てりやかもちつきに(照り上がる望月〔神女〕に)/ともゝとの かたなうちの とよみ(十百年の刀を打ち〔佩き〕鳴響でいる)/又 わかいきよか(若い子が)/かかすたうはるに(嘉数桃原に)/ともゝとの(十百年の)」とある。ここの「たうはる」は台地状の地形を意味する普通名詞である。巻一五の四三には「かゝすもりくすく」がみえる。初め浦添うらしー間切に属し、元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)に「加賀寺村」とみえる。


嘉数村
かかじむら

[現在地名]豊見城嘉数かかず

豊見城とうみぐすく間切の北東部に位置し、東は長堂ながどー村、北は真玉橋まだんばし村と長堂ながどー川を挟んで真和志まーじ間切仲井間なけーま(現那覇市)。絵図郷村帳には豊見城間切「かかす村」とみえるが、琉球国高究帳には記載がない。「琉球国由来記」には同嘉数村とみえる。兼城かにぐすく間切に同名の賀数かかじ(現糸満市)がある。間切集成図には真玉橋村根差部みさしつぷ村に南下する道筋の東に両村に挟まれるように描かれる。当間切の夫地頭の一人は嘉数親雲上を名乗り、一八八〇年(明治一三年)役俸は米五石余・雑石一石余(役俸調書)。尚王二三年(一八二六)地内の旱田一万余坪が当村の比嘉氏らによって開発されて大米八四石余を産し、旧租より七六石余が浮くことになった(球陽)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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