日本歴史地名大系 「宜野湾市」の解説 宜野湾市ぎのわんし 沖縄県:沖縄島中部宜野湾市面積:一九・五一平方キロ沖縄島中部の西海岸に位置し、北は中頭郡北谷(ちやたん)町・北中城(きたなかぐすく)村、東は同郡中城(なかぐすく)村、南は同郡西原(にしはら)町・浦添(うらそえ)市に接し、西側は東シナ海に面する。市域の大部分は東から西へ三段の階段状に傾斜する琉球石灰岩の海岸段丘上にあり、段丘面を取囲むように北・東・南を普天間(ふていま)(ふてんま)川と宇地泊(うちどうまい)(うちどまり)川(比屋良川)が巡り、東シナ海に注ぐ河口では三角江が形成される。東シナ海に沿う低地はサンゴ礁が干上って形成された海岸低地であり、この海岸段丘と低地の境の崖には多くの湧水がみられる。市域の中心には米軍普天間(ふてんま)飛行場があるため、市街地はこの外縁に沿っていびつな形で形成されている。西側を国道五八号、東側を国道三三〇号、北側を主要地方道宜野湾―北中城線、南側を県道三四号線の幹線がそれぞれ市域をドーナツ状に通っており、那覇および中北部を結ぶ交通上の要地である。〔先史時代・古琉球〕市域には旧石器時代からグスク時代までの遺跡が約一五〇確認されている。旧石器時代では約二万年前のものとされる人骨の一部が発見された大山(おおやま)洞窟遺跡がある。貝塚時代では、前期後半の標式遺跡大山(おおやま)貝塚、中期では集落遺構や石鏃製作跡が発掘された喜友名東原(きゆうなあがりばる)ヌバタキ遺跡、真志喜大川原(ましきおおかわばる)第三遺跡、中期―後期では埋葬・集落遺構が発掘された真志喜安座間原(ましきあざまばる)第一遺跡・同第二遺跡など約六〇の遺跡が発見されている。古琉球の当地域は三山の中核をなした浦添(うらしー)の一地域であった。市域南西部の謝名(じやな)の生れで、英祖王統に代わって新しい中山王統である察度王朝を開いた察度王の出自に関連して、天女伝説で知られる森の川(むいぬかー)、察度の居館跡といわれる黄金宮(くがになー)などの遺跡が知られており、市域を拠点に強力な按司へ台頭していく状況が推測できる。察度は牧湊(まちなとう)(現浦添市)に来航する日本の商船から鉄塊を買い、農民に与え農具を作らせた。農民は察度を慕い浦添按司とし、さらに西威王の死後、幼少の世子を廃して察度を中山王に推したと伝える(「球陽」察度王附紀条)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宜野湾市」の意味・わかりやすい解説 宜野湾〔市〕ぎのわん 沖縄県,沖縄島南部の西海岸にある市。1962年市制。市名は近世以来の間切(まぎり。行政区画)名に由来する。市域の大半は台地および丘陵地。国道58号線沿いに大謝名(おおじゃな)と伊佐,内陸に我如古(がねく),普天間(ふてんま)などの地区がある。市域中心部の大部分を普天間飛行場などのアメリカ軍用地が占め,サトウキビ栽培を主とする耕地は第2次世界大戦前より半減した。普天間を中心に大山,大謝名一帯には卸小売業,サービス業などの中小企業が密集している。普天間には沖縄八社の一つ普天間権現がある。沖縄における標式土器で知られる国の史跡大山貝塚がある。国道58号線,330号線が通る。面積 19.80km2。人口 10万0125(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by