日本歴史地名大系 「四十万村」の解説 四十万村しじまむら 石川県:金沢市旧石川郡地区四十万村[現在地名]金沢市四十万町・しじま台(だい)一―二丁目・四十万三―六丁目額谷(ぬかだに)村の南、手取川扇状地の東縁、倉(くら)ヶ岳の北西麓に位置する。村内を鶴来往(つるぎおう)来が通る。明応八年(一四九九)九月晦日の富樫泰高寄進状(善性寺文書)に「本庄四十万村之内大仙寺分之屋敷并山林」とみえ、法慶道場(のちの善性寺)に寄せられている。本庄とは富樫氏の開発本領である富樫(とがし)庄の本庄をさすと推定され、長享二年(一四八八)の一向一揆のあと、名目上の守護となった泰高が甥成春(富樫政親の父)の菩提寺である大仙(だいせん)寺の屋敷と山林を、法慶道場の基盤として寄進したものである。寄進された屋敷地・山林は、泰高の没後宗家を継いだ稙泰によって安堵されている(永正元年三月五日「富樫稙泰書下状」同文書、同二年五月二五日「山川高次遵行状」同文書)。 四十万村しじまむら 富山県:西礪波郡福岡町四十万村[現在地名]福岡町福岡小矢部(おやべ)川右岸の低平地に立地し、南部を岸渡(がんど)川が東流。北陸街道が通り、街道沿いに承応年中(一六五二―五五)福岡町が成立(増補大路水経)。ただし福岡町は地子地で、村御印の上では当村に含まれ、地子銀は当村が一括して納めた。元和五年(一六一九)の家高新帳に「四拾万嶋」とみえ役家数四、赤丸組に属した。江戸時代前期の越中絵図(井波町立図書館蔵)には四嶋村とみえる。正保郷帳では高一九五石余、田方一二町三反余・畑方七反余。寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)には村名がみえず、福岡町に含まれた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by