室町後期の加賀守護。幼名鶴童丸。次郎、富樫介(すけ)。1462年(寛正3)旧北半国守護であった父成春(なりはる)の死去で家督を、64年大叔父泰高(やすたか)の隠居で南半国守護職を継承。応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱時には東軍に属し、西軍の幸千代(こうちよ)(弟)勢と戦い、いったん没落。74年(文明6)、吉崎(よしざき)(福井県あわら市)に滞在していた本願寺蓮如(れんにょ)を中心とする一向(いっこう)衆の支援を得て再入国。その後一国支配権の認知を目ざし、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)親征の六角(ろっかく)氏征伐に従軍したが、これによる軍費負担の増大などを不満として88年(長享2)一向衆を主体とする一揆(いっき)が勃発(ぼっぱつ)(長享(ちょうきょう)一揆)。この一揆を抑えられず、高尾(たこう)城(金沢市)で自害した。以後富樫氏の勢力は急速に減退していった。一揆のようすを記した『官地(かんち)論』には政親の最期が記されている。
[金龍 静]
(石田晴男)
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室町後期の加賀守護。生年は1450年代後期。次郎,富樫介を名のる。62年(寛正3)旧北半国守護成春の死去で家督を,64年大叔父泰高の隠居で南半国守護職を継承。応仁・文明の乱では東軍に属し,西軍の幸千代勢と戦い没落したが,74年(文明6)一向衆の支援を得て再入国。一国支配権の認知をめざし,将軍親征の領国外での戦役に従軍し,軍費増大等で88年一揆が勃発。高尾(たこう)城にて自害した。《官地論》は政親の最後の有様を記す。
執筆者:金龍 静
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1455~88.6.9
室町時代の武将。加賀半国守護。嘉吉の内紛ののち加賀北半の守護職は政親の父成春が,同南半の守護職は成春の叔父泰高がえた。前者は一時赤松氏に奪われたが,政親はこれを回復して泰高と対立,応仁・文明の乱では東軍,泰高は西軍に属した。1474年(文明6)には弟幸千代と争いこれを破った。75年一向一揆と交戦。87年(長享元)将軍足利義尚に従って近江に出陣したが,留守中に一揆の活動が熾烈となり,帰国して高尾(たこう)城(現,金沢市)に拠った。翌年6月同城を攻め落とされ自殺。
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…情勢の緊迫に蓮如は衝突を回避するため吉崎を退去する。このころ,応仁の乱の余波もあって富樫家では当守護幸千代と富樫政親の兄弟は相争い,幸千代は高田門徒と結び,本願寺門徒と白山衆徒は政親を支援し抗争は宗教戦争の様相を帯びた。政親方は74年に蓮台寺城(小松市)を攻め,守護代の小杉を殺し,幸千代を追い,権力を奪取した(文明の一揆)。…
…この結果,吉崎坊が創建されてまもないころから,本願寺門徒は加賀全域で一揆を構成し,積極的な納税拒否闘争を展開する。 応仁の乱を機会に北加賀の守護赤松氏が本領の播磨などを回復すると,加賀の守護職は富樫政親と幸千代の兄弟を擁立する2派の国人によって争われることとなった。幸千代派と高田門徒の結合に対抗して,本願寺門徒もまた政親派に加勢する形で権力抗争に介入し,74年の〈文明の一揆〉で幸千代派を打倒する。…
※「富樫政親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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