改訂新版 世界大百科事典 「回教徒蜂起」の意味・わかりやすい解説
回教徒蜂起 (かいきょうとほうき)
1850年代から70年代にかけ,陝西・甘粛・寧夏・青海・雲南・貴州の各省に発生した回教徒(イスラム教徒)による蜂起。中国におけるイスラム教徒の反乱は,唐代より散見しうるが,とくに問題になるのは清朝治下での反乱である。清初の須治年間(1644-61)に起こった反乱は,東トルキスタンに居住する回部(ウイグル)が新興の満州族王朝に対抗したものであった。乾隆年間(1736-95)のなかばに起こった反乱は,ジュンガルおよび回部を征服し,強圧支配を敷いた清朝に対して,イスラム教徒が失地回復を目ざして反乱を繰り返したものである。
ところで,清朝支配の中期になると,各地に白蓮教の乱が起こったが,この反乱に手をやいた清朝は,これ以降,地方自衛組織である団練を奨励した。ためにイスラム教徒と漢人との対立は激化をみた。また漢回紛争に対する地方官の不公平な処理も加わり,抗争は,いっそう激しくなった。太平天国の乱が拡大する状況の下で,清朝がイスラム教徒に対し,従来の和睦主義から強圧策に転じたことも反乱に影響を与えた。まず雲南回教徒(ビルマ人はパンゼーと呼称)は,1854年(咸豊4)楚雄府石羊銀厰の回漢鉱夫の衝突を発端として,雲南全域で反乱を起こした。首将杜文秀は大理を拠点に元帥と称し,清朝打倒を掲げた(72年鎮定される)。陝西・甘粛のイスラム教徒は,1862年(同治1)西安府ほかで蜂起し,金積堡に拠る馬化竜が最強であった。73年に鎮圧され,陝西における反乱の中心人物白彦虎は新疆に逃れた。この陝甘の反乱は新疆に波及し,当地の中国人イスラム教徒(東干つまりドゥンガン)は64年にウルムチで乱を起こした。ウイグル人ヤークーブ・ベクは,65年に清朝軍を撃ってカシュガルに進入し,ドゥンガンをも圧して西部4城にイスラム政権を樹立し,ロシアはこの機に乗じてイリを占領した。ドゥンガンの反乱は77年(光緒3)までに左宗棠により討滅され,新疆はその後清朝の植民地統治を受けた。また1858年(咸豊8)から72年(同治11)にかけ,貴州省では普安などで金万照らを首領とする蜂起(白旗と自称)が起っている。なお,辛亥革命後の民国時代には馬仲英らによる反乱が有名。
→回族
執筆者:浜下 武志
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