回族(読み)カイゾク(英語表記)Huí zú

デジタル大辞泉 「回族」の意味・読み・例文・類語

かい‐ぞく〔クワイ‐〕【回族】

中国の少数民族の一。イスラム教を信仰し、主に寧夏ねいか回族自治区に居住する。13世紀に西アジアから移住したイスラム教徒が先祖で、漢族などと混血して少数民族的集団を形成。もと、回民と呼ばれた。ホイ族。ホイホイ。

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共同通信ニュース用語解説 「回族」の解説

回族

イスラム教を信じる中国の少数民族。中国各地に定住し、人口は約1100万人。漢族を除く少数民族としては、チワン族や同じイスラム教徒中心のウイグル族に次いで3番目に多い。西部の居住が多いが、北京や河北省、山東省、雲南省などにもそれぞれ20万人以上いる。回族の歴史は唐の時代にまでさかのぼり、7世紀半ばにアラブやペルシャの商人が交易で中国を訪れ、一部が定住。その末裔まつえいらが回族と考えられている。(玉渓共同)

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精選版 日本国語大辞典 「回族」の意味・読み・例文・類語

ホエイ‐ぞく【回族】

  1. 〘 名詞 〙 中国各地、特に西北部に多く住む少数民族の一つ。寧夏回族自治区を作る。一三世紀以来中央アジアから来た色目人が漢族、モンゴル族などと混血したもの。イスラム教を信仰する。カイ(回)族、ホイ族、フイ族、ホイホイ、フイフイともいう。

かい‐ぞくクヮイ‥【回族】

  1. 〘 名詞 〙ホエイぞく(━族)

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改訂新版 世界大百科事典 「回族」の意味・わかりやすい解説

回族 (かいぞく)
Huí zú

中華人民共和国の少数民族の一つで,宗教上はイスラム教徒。中国の各地に分布し,中国語を話し,体質的には漢族と大差はない。人口は約860万(1990)。歴史上は回回,回民と呼ばれるが,自らは穆斯林(ムスリム)と称する。回族とは新しい呼称である。中国西北,新疆地方ではドゥンガン(東干)と呼ばれたが,現在はこの名称は使われない。

中国イスラムは唐宋時代に中国に渡来したアラブ,ペルシア人とそのイスラムに起源する。イスラムが中国に最初に伝来した年代については諸説があるが,西暦651年(ヒジュラ暦30・31,唐の永徽2)にイスラム国であるタージ(大食。アラブをさす)の使者が唐に派遣されたというのが比較的確実である。これらのアラブやペルシア人は商人として,兵士として唐に来住したが,これによってイスラムが中国に広く普及したとはみなし難い。唐代から宋代にかけてアラブ・ペルシア系の貿易商人が南方海路で広州,泉州(福建省)などの商港に来て居住し,貿易によって巨富を積み,蕃坊ばんぼう)という外人居住区を設け,さらに中国人と結婚したり,多年在留することもあった。そのなかで,南宋末,元朝初めの泉州の蒲寿庚(ほじゆこう)というアラブ系の商人は,数代前の先祖の時代から引きつづいて南海貿易商人として活躍し,泉州の提挙市舶(外国貿易管理長官)の地位にあった人物として有名である。宋代には広州の懐聖寺,泉州の清浄寺のようなイスラムの礼拝寺(モスク。中国では清真寺という)も建てられ,中国人の間にも多少のイスラムへの改宗者もあったらしい。

13~14世紀のモンゴル帝国時代になると,多数のイスラム教徒が奴隷,兵士,職人,商人として元朝へ移住し,官吏として仕える知識人もあり,華北を中心に各地に散在し,回回と呼ばれた。このようなイスラム教徒のなかには,漢人と結婚する者もあり,また,自発的にイスラムに改宗する漢人もあり,清真寺も建てられ,中国化した西アジア系イスラム教徒の数も少なくなかった。

元朝が滅びると,これらのイスラム教徒の大部分は明朝治下の中国にとどまった。彼らは中国社会に適応するため,姓名を漢名に改め,しだいに漢人とも通婚し,中国語を用い,漢人社会内での生存の道を求めた。しかし,彼らは漢人とは明瞭に区別されるイスラム信仰とその宗教的生活秩序を強固に維持し,このようにして中国回民社会が形成された。明代回民のおもな分布域は河北,河南,とくにその大運河に沿う地方を中心に陝西,甘粛,雲南にわたっている。しかし,圧倒的な漢人人口にかこまれているため,官吏や学者になった若干の者を除き,回民の地位は低く,風俗習慣の大きな差異のため,社会的差別をうけることが多く,したがって回民の職業は飲食業,運送業,家畜業,小売商業などに限定され,さらに回民と漢人との摩擦はつねに見られた。15世紀から,湖北,河北,河南,山東,陝西に貧窮化した回民の擾乱がおこり,明朝が滅んで清朝が成立した17世紀の前半には,甘粛の回民の擾乱がおきた。清朝官吏は,漢人と宗教・風俗を異にする回民を異端視する傾向があった。清朝時代の回民のおもな住地は陝西,甘粛,河北,山東,安徽,雲南などで,江蘇,四川,広東,広州にも回民がおり,さらに18~19世紀にかけて内モンゴル長城地帯,東北地区(旧,満州)へも回民の移住があり,1760年代からは新疆省の天山北路へ回民が兵士,農民,商人としてかなり移住した。清代回民の職業は前代と大差はなく,社会的地位もやはり低かった。他方,回民社会の成熟に伴って17世紀中期より18世紀にかけて胡太師王岱与などの回民の宗教学者や文化人が続出し,漢文で経典や教義書を著し,回民の啓蒙と漢人に向けての護教・宣伝活動を行った。

中国イスラムはスンナ派ハナフィー派に属する。回民は清真寺を中核として集住するのがふつうであり,各清真寺に所属する回民の宗教的生活を管理指導する宗務者をアホンという。清真寺の財政その他の経営に当たる者を郷老といい,アホンの招聘・選任を行う。アホンは清真寺の教長と呼ばれ,教長の下にハリーファ(徒弟,学生),ハティーブ(金曜日の特別礼拝にフトバすなわち説教を唱える役),ムアッジン(礼拝時間を呼号する役),ムフティー(法律師)という宗務者がいるが,近代中国の清真寺ではアホンとハリーファのみの場合が多い。アホンの宗教上の指導力は強く,教義に反した所属回民に対しては,冠婚葬祭に立ち会わないとか,回民墓地に埋葬することを許可しないという方法で,一種の宗教裁判を行って回民社会から追放することもできる。ただし,現代中国では多くの事情が激変しているので,過去の個々の事例はあてはまらない。

中国回民の勤行・儀礼・教律は,西アジアのイスラムと基本的に一致している。まず,イスラムの五柱,すなわち,信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼は,イスラム教徒の第一の義務行為であり,中国回民はこれを遵守している。礼拝は清真寺の大殿(本堂)で1日5回行われるが,ジュマー(金曜日)の礼拝はとくに重要で,参列者がもっとも多い。ヒジュラ暦第9月(ラマダーン)の断食の行事も行われており,過去にはメッカへ巡礼する篤信者もあった。重要な祭典の第一はイード・アルフィトル(断食明けの祭典。大開斎節という)で,ラマダーンの終了した朝,すなわち第10月の第1日の朝,イスラムの新年として盛大に祝う。この日から70日目の第12月第10日はイード・アルアドハー(供犠節,クルバーン。小開斎節という)で,聖人イブラーヒーム(アブラハム)がその子をアッラー(神)に捧げようとした献身的犠牲の行為という故事にもとづき,羊をほふって慈悲の精神を示す祭典である。その他,アーイシャ祭,ムハンマドマホメット)の聖誕祭(マウリド)のような聖人崇拝の祭典も行われている。回民家庭で子どもが誕生すると,3日目にアホンを招き,経典を唱えて命名する。その際,漢名のほかにイスラム名(たとえばイブラーヒーム,アーイシャなど)をつける。宗務者たちはイスラム名を漢姓以上に重視する。男児が8~12歳ころになると,アホンを招き,その立会いの下で割礼を行う。幼少年の教育は清真寺付属の阿文小学校において,宗務者がアラビア文字や礼拝法,教義の基礎を教える(1945年以前の事情による)。

 婚姻はアホンが立ち会い,経典の章句を唱え婚姻証書(イジャブ)を作成することによって効力が発生する。臨終に際してはアホンが唱経し,死者に代わって懺悔(タウバ)を行い,埋葬のときはアホンが唱経して,遺体を穴におろす。回民の墓地は回教義地と呼ばれる共同墓地であることが多い。なお,一般漢人の葬礼習俗はまったく混入していない。

 食物・職業に関する禁忌(ハラーム)もかなり厳しく守られている。回民に禁止されている食品は豚肉,貝・エビなどの甲殻魚類,形状の怪異な魚類,馬・ロバ・ラバのような奇蹄類およびガチョウ・七面鳥の肉,酒・タバコなどである。豚肉については食べることを絶対禁止されているのみならず,豚肉の販売,屠殺業,加工業(豚脂で製造した石けん類),生きた豚の販売も原則的に禁止されている。およそ豚肉に関する商工業は漢族に独占されている。

 回民は圧倒的な人口の中国漢族社会にかこまれているにもかかわらず,非イスラム的習俗の影響をうけることは少ない。たとえば,回民は漢族の信仰対象となっている城隍廟,関帝廟,娘娘廟に参詣することはなく,家庭でも道教・仏教・儒教の祭神をまつることはない。病気の際に,茶わんの内部にイスラムの祈禱の聖句を記し,水をいれて飲むという迷信的習俗は実際に行われていた。回民の日常の服装は漢族と同じく中国服であったが,純白布製の白帽子を常用して標識とする。回民は清浄を重んじ,たえず沐浴(大浄・小浄の種類がある)し,外で食事するときは回民専用の清真料理店を利用するが,非イスラム教徒も食事ができる。

回民は信仰・習慣をはなはだしく異にする多数民族の漢族社会から特殊視されて,社会的経済的圧迫をうけることが多く,職業も小売業・飲食業・運搬業などに限定され,また,地方官吏からの圧迫や差別待遇をうけていた。その結果,各地で回漢の対立がおこり,明代中期から回民と漢人との械闘がしばしば発生し,清朝時代になると,1821(道光1),33,39,45-48の各年に,雲南省に回民の反乱が続発し,1854-72年(咸豊4-同治11)の雲南回民の指導者,杜文秀に率いられた大規模の反乱はパンゼーの乱として著名である。陝西省では,1781-85年(乾隆46-50)に新教(伝統的中国イスラムに異を唱えた改革派)回民の反乱があり,1862年(同治1)には回漢の武力衝突がおこり,これは陝西から甘粛,新疆に波及し,77年(光緒3)まで陝甘・新疆のドゥンガン回民の大反乱がつづいた(回教徒蜂起)。20世紀になると,中国本土では回民反乱はほとんどなくなり,中華民国の時代には回民の指導層も回漢の融和を説き,回民の地位の向上をはかるようになった。

中華人民共和国が成立すると,中国政府は回民に中国少数民族の一つとしての地位を認め,彼らに新たに回族という民族名を与えた。かくて,前代以来の回民は公式名称として回族と呼ばれることになった。中国政府は回族の集居地区に民族区域を設けて自治政策をとらせる方針をとった。そのおもなものは,甘粛省では寧夏回族自治区(1958成立。政府所在地は銀川市),臨夏回族自治州(1956。臨夏市),新疆昌吉回族自治州のほか,甘粛張家川,青海門源,化隆,新疆焉耆(えんき),河北大厰,孟村の6回族自治県である。これらの回族自治区・州・県には人民政府が設けられ,回族も政治に参加し,回族の信仰,慣習,風俗,伝統文化を保持・享有することを認められ,回族の生活文化は向上しつつある。
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百科事典マイペディア 「回族」の意味・わかりやすい解説

回族【かいぞく】

中国のムスリム(イスラム教徒)の民族集団の一つ。861万人(1991)。西北地方ではドゥンガン(東干,東甘)とも呼ばれ,かつては回民とも。13世紀以降中国に来住したムスリムと,漢族などの混血により歴史的に形成された民族で,言語,容貌ともに漢民族と同じである。中国全土に居住するが,とくに寧夏回族自治区,甘粛省,河南省,雲南省に多い。回族のモスクは清真寺と呼ばれ,スンナ派である。清朝下の1862年に西北地方で大規模な反乱を起こしたことが知られる。
→関連項目イリ条約内モンゴル自治区王浩然吉首新疆ウイグル自治区トンシャン(東郷)族馬鴻逵フフホト臨夏

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「回族」の意味・わかりやすい解説

回族
かいぞく
Hui

中国の少数民族の一つ。チワン族に次ぐ中国の少数民族中第2位の人口(2010年に1058万6087)を擁し、その居住地域はきわめて広範に及んでいる。これはその成立の歴史と不可分に結び付いている。「回回(フイフイ)」ともよばれる彼らの先祖は、中国に渡来したアラビアやペルシアのイスラム教徒たちであったといわれる。商売のために中国にきて住み着く者は唐代ごろからあったが、13世紀のモンゴルの西征と元の支配とを機に、西方からの人口流入が増大した。こうした渡来者は軍人や農牧民、職工、商人、学者、役人などとして各地に分散していった。彼らは婚姻を通じて漢民族やウイグル、モンゴルの人々などを漸次吸収していき、現在中国では「回族」とよばれる民族集団を形成するに至った。

 彼らは「清真寺(チンジェンスウ)」とよばれるイスラム教(回教)寺院を中心に小集団をなして居住する。都市において漢民族と近接して居住することが多く、漢化の程度が高い。宗教を核とする独自の文化を維持する一方で、日常生活においては漢文化を多く受容している。信心深い者がイスラム特有の帽子をかぶる以外、平素の服装は漢民族と区別がない。また宗教活動でアラビア語を用いる以外は漢語と漢字を用いる。豚肉を食べない習慣を厳重に守る者が多く、豚肉や豚の脂肪を使った料理のない回族を対象とする食堂が全国各地にみられるのは彼らの居住や移動の範囲の広さを物語る。

[横山廣子]

『馬寅編、君島久子監訳『概説中国の少数民族』(1987・三省堂)』

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