土岐頼貞
ときよりさだ
(1271―1339)
鎌倉後期~南北朝時代の武将。光貞(みつさだ)(光定)の子として土岐氏惣領(そうりょう)を継ぐ。『太平記』には日野資朝(ひのすけとも)が倒幕のために引き入れようとした武将の1人で、1324年(正中1)の正中(しょうちゅう)の変に一族とともに後醍醐(ごだいご)天皇方として蜂起(ほうき)をねらったが失敗したと描かれている。しかし、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』『大日本史』などによれば、正中の変のときに滅ぼされたのは、頼貞の子頼兼とされている。彼自身は南北朝内乱期に足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い多くの戦功をあげ、それにより美濃(みの)国守護となる。その後一日市場(ひといちば)館(岐阜県瑞浪(みずなみ)市土岐町)を中核として美濃国の支配を行う。弓馬に秀(すぐ)れ、歌もよくした人物であったという。39年(延元4・暦応2)2月22日没。
[小林一岳]
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土岐頼貞
没年:暦応2/延元4.2.22(1339.4.1)
生年:文永8(1271)
鎌倉後期・南北朝初期の武将。美濃国(岐阜県)守護。伯耆守。父は光定(光貞)。母は北条貞時の娘。鎌倉末期に北条得宗家との結び付きを強めて勢力を拡大。建武新政時には足利尊氏に属す。以後,尊氏に従って転戦。室町幕府創業の功臣となり,尊氏から「御一家の次,諸家の頭」(『家中竹馬記』),「土岐絶えば足利絶ゆべし」(『土岐家聞書』)とまで信任されたという。建武3/延元1(1336)年9月以前に土岐氏で初めての美濃守護となり,以後の土岐氏発展の基礎を築いた。諸系図には「歌人,弓馬上手」とあり,勅撰集にも多くの和歌を残している。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
土岐頼貞 とき-よりさだ
1271-1339 鎌倉-南北朝時代の武将。
文永8年生まれ。父は土岐光定,母は北条貞時の娘。足利尊氏(たかうじ)にしたがい室町幕府創設に参画。美濃(みの)(岐阜県)守護となり,以後土岐氏が代々美濃守護となる基をきずいた。歌人としても知られ,「玉葉和歌集」などに歌をのこす。暦応(りゃくおう)2=延元4年2月22日死去。69歳。通称は隠岐(おき)孫二郎。
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世界大百科事典(旧版)内の土岐頼貞の言及
【土岐氏】より
…正中の変で,後醍醐天皇の討幕計画に参加した武士のなかに土岐頼員,多治見国長ら土岐一族の名がみられるが,元弘の乱での動向は定かでない。 建武の政変では,惣領土岐頼貞は足利尊氏に従って活躍し,1336年(延元1∥建武3)ごろには美濃国の守護に任じられた。以後南北朝の動乱においては終始足利将軍の与党として軍功をあげ,頼康の時代には尾張,伊勢の守護職をも獲得し,幕政においても不動の地位を占めるにいたった。…
【土岐頼遠】より
…南北朝時代の武将。美濃国守護土岐頼貞の次男。南北朝の動乱に際し,父頼貞とともに終始足利氏の与党として活躍し,外様の土岐氏の美濃守護保持を不動のものとした。…
【美濃国】より
…しかし土岐光行は幕府側にたち,饗庭(あえば)荘などを恩賞として与えられ,再び美濃の雄族としての地歩をかため,守護となった北条氏の得宗と結ぶなどして勢力を拡大していった。 南北朝の内乱にさいし,土岐頼貞は足利方につき,1336年(延元1∥建武3)にはすでに美濃国守護に任ぜられ,その後も国内外の南朝勢力の鎮圧などに功績をあげ,戦国時代まで200余年間土岐氏が美濃国の守護職を保持する基礎をかためた。この土岐氏の実力は,鎌倉時代以来国内に分布した一族を中心とする強力な軍事力と,半済(はんぜい)などによって国内の膨大な国衙領を手中にした経済力にもとづくものであった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」