島根県北東部,日本海に浮かぶ諸島。ほぼ円形の島後(どうご)と南西の知夫里(ちぶり)島,中ノ島,西ノ島(この3島を島前(どうぜん)という)の4島のほか,約180の小島からなる。かつて島後は周吉(すき),穏地(おち)の2郡,島前は知夫,海士(あま)の2郡に分かれていたが,1969年4郡を合併して全域を隠岐郡と改称した。島後(242.8km2)には隠岐の島町,島前には知夫里島(13km2)に知夫村,中ノ島(32.1km2)に海士町,西ノ島(56.5km2)に西ノ島町があり,面積は合計約348km2。地質は朝鮮,中国東北と同系統のアルカリ火山岩地域に属し,溶岩台地が広く沖積低地は少ない。対馬暖流の影響で本土よりは温暖で,県の海岸からのびる6000平方カイリの陸棚が隠岐堆などのすぐれた漁礁をつくっている。
産業は半農半漁で,耕地は17世紀末には畑地が主でしかも牧畑が大部分であった。18世紀末には全島各村に牧畑があり,とくに島前では98%が牧畑であった。牧畑では大豆,アワ,ヒエ,サツマイモなどの限られた作物が,牛馬放牧と交替で,一定の輪転方式でつくられた。食糧事情は深刻で,江戸時代には米を銀で代納し,米そのものを〈御拝借米〉として払下げを受けた。漁場に恵まれてはいたが,水産物の移出は幕末期に河村瑞軒によって西廻海運が開発され,隠岐の各港が風待や避難の場となってからであった。海運開発によって日用品や食料の移入が可能となり,またアワビ,ナマコ,するめが商品化され,松前や五島と並んで干しアワビといりこが清,オランダへの輸出品となった。19世紀がその最盛期で,海運に従事する地主や問屋商人もでた。木材の商品化もこのころから進み,島後の旧布施村では18世紀牧畑の杉林化がみられた。明治に入ると肉牛飼育が,大正期には沖合漁業が進んだが,漁船の大型化につれて本土側漁業者の経営が目だち始め,経済都市としての島後の西郷の機能は衰え,人口流出が進んだ。1953年制定の離島振興法による各事業の進展は人口流出に拍車をかけたが,65年旧西郷町に隠岐空港が開設されて本土との連絡も便利になり,近年農林漁業と観光の振興に力が入れられている。
隠岐は古くから流人の島として知られ,8世紀の小野篁(たかむら),13世紀の後鳥羽上皇,文覚上人,14世紀の後醍醐天皇配流の地である。西ノ島町には,後醍醐天皇ゆかりの黒木御所址,焼火(たくひ)山南の文覚窟,海士町には後鳥羽上皇御火葬塚がある。また自然環境がよく保存され,島後の白島はオオミズナギドリ,壇鏡滝はサンショウウオ生息地である。溶岩台地末端の海岸は柱状節理が発達し,西ノ島町の258mの断崖と,海食洞〈明暗(あけくれ)の岩屋〉のある国賀海岸(名・天)や,1kmにわたる海食洞の知夫赤壁(名・天)も美しく,ほかにも布施海岸(名),白島海岸(名・天),海苔田ノ鼻(名・天)などの見どころがあって大山隠岐国立公園に含まれている。
→隠岐国
執筆者:池田 善昭
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…面積=6706.70km2(全国19位)人口(1995)=77万1441人(全国46位)人口密度(1995)=115人/km2(全国43位)市町村(1997.4)=8市41町10村県庁所在地=松江市(人口=14万7416人)県花=ボタン 県木=クロマツ 県鳥=オオハクチョウ中国地方の北西部に位置する県。東は鳥取県,南は広島県,南から西にかけては山口県に接し,北は日本海に臨み,日本海上の隠岐諸島を含む。
[沿革]
県域はかつての出雲,石見,隠岐の3国全域にあたる。…
…同じ土地がときには作物の作付けに,ときには牛や馬の放牧に利用され,農耕と放牧とが交替で転換する粗放的な土地利用法は,かつては対馬,種子島,屋久島などでも粗放畑作である焼畑段階の一異型として不完全ながら行われていた。しかし,これが規則正しい順序で整然と行われたのは,隠岐島だけであって,そこではヨーロッパ中世の三圃制に類似の耕牧輪転農法が行われた。そして一般には,隠岐におけるような耕牧輪転農法を牧畑式または牧畑と呼んでいる。…
※「隠岐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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