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日野資朝 ひのすけとも

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日野資朝
ひのすけとも

[生]正応3(1290)
[没]元弘2=正慶1(1332).6.2. /元弘2=正慶1(1332).5.25/30. 佐渡
鎌倉時代末期の廷臣。俊光の子。後醍醐天皇の信任を得て,元亨1 (1321) 年参議。院政をやめ親政を始めた天皇がひそかに計画した幕府討滅に日野俊基らと加わり,同3年東国武士の奮起を促すため下向。

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デジタル大辞泉の解説

ひの‐すけとも【日野資朝】

[1290~1332]鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に登用され、日野俊基らと討幕計画を進めたが、六波羅探題に探知されて、佐渡に配流(正中の変)。のち、佐渡で斬られた。

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百科事典マイペディアの解説

日野資朝【ひのすけとも】

鎌倉末期の公卿(くぎょう)。俊光の子。後醍醐天皇に信任され,討幕計画に加わったが,1324年計画が幕府側にもれて捕らわれ(正中の変),鎌倉に幽閉されたのち佐渡に流罪。
→関連項目日野家日野俊基妙宣寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

日野資朝 ひの-すけとも

1290-1332 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)3年生まれ。日野俊光の次男。日野資名の弟。従三位,権(ごんの)中納言。後醍醐(ごだいご)天皇の側近として,日野俊基らとともに天皇の討幕計画(正中(しょうちゅう)の変)にくわわり,謀議が発覚して捕らえられ佐渡に流された。再度の討幕計画(元弘(げんこう)の乱)が失敗して天皇が隠岐(おき)に流された際,正慶(しょうきょう)元=元弘2年6月2日配所で殺された。43歳。
【格言など】五蘊(ごうん)仮に形を成し 四大今空に帰す 首(こうべ)を将(も)って白刃に当つ 截断(さいだん)一陣の風(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

日野資朝

没年:正慶1/元弘2.6.2(1332.6.25)
生年:正応3(1290)
鎌倉後期の公卿。父は権大納言日野俊光。後醍醐天皇の側近。才学人に過ぐと称される。天皇親政のもと信任を受けて,元亨1(1321)年参議に,3年従三位,検非違使別当となった。同年勅使として鎌倉に下向した。天皇の討幕計画に最初から参加し,運動に専念した。日野俊基と共に,鎌倉幕府の密偵を欺くために,多治見国長,花山院師賢,四条隆資らを招いて,しばしば無礼講と称する宴会を開いた。正中1(1324)年9月,北野天神社の祭礼の日に蜂起しようとしたが,討幕の謀議が事前に露見して六波羅探題に捕縛され,鎌倉へ護送,翌年8月には佐渡に配流された。のち,元弘の変の失敗により,正慶1/元弘2(1332)年,天皇が隠岐に流された際,幕府は将来の禍根を断つためと称して,佐渡守護本間入道に命じて,資朝を配所において斬首させた。死に臨んで資朝は,「まさに,首に白刃あたらんとす,截断する一陣の風」と偈したという。『太平記』は,資朝の子阿新丸(日野邦光)が,母の反対を押し切って佐渡に赴き,父に面会を求めたもののかなえられず,すでに謀殺されていることを知るや,父の仇を討ち,山伏に助けられ,商人船に乗って追っ手から逃れたと記している。

(佐藤和彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

ひのすけとも【日野資朝】

1290‐1332(正応3‐元弘2)
鎌倉末期の公卿。新来の宋学(朱子学)を修めるなど,若くして才気煥発であり,花園天皇,続いて後醍醐天皇の知遇を得て,弁,参議を経て権中納言にすすんだ。この間,後醍醐天皇が記録所を開設するやその寄人に加えられ,また蔵人頭,検非違使別当等も務めた。こうして後醍醐天皇の大覚寺統にくみするようになり,持明院統の側に立つ,父の俊光や兄弟の日野資名柳原資明とは別の道を歩むことになった。やがて後醍醐天皇が討幕を企図すると,日野俊基とともに策謀の中心となった。

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大辞林 第三版の解説

ひのすけとも【日野資朝】

1290~1332) 鎌倉末期の廷臣。俊光の子。後醍醐天皇に登用され、参議・権中納言などを歴任。討幕運動の中心人物となったが、1324年計画が露顕して捕らえられ、佐渡に流されて処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日野資朝
ひのすけとも
(1290―1332)

鎌倉後期の公卿(くぎょう)。権大納言俊光(ごんだいなごんとしみつ)の次子。後醍醐(ごだいご)天皇が朝廷の刷新を行うにあたって抜擢(ばってき)され、参議(さんぎ)、権中納言となり朝廷の政治の中心となった。天皇の倒幕計画に参画し、日野俊基(としもと)、花山院師賢(かざんいんもろかた)、四条隆資(しじょうたかすけ)らとともに、幕府の目を欺くために、無礼講(ぶれいこう)と称する学問遊宴の会合を設けて計略を巡らせた。それが六波羅探題(ろくはらたんだい)の知るところとなり、1324年(正中1)俊基とともに捕らえられ、鎌倉に幽閉された(正中(しょうちゅう)の変)。しかし天皇の告文(こうもん)によって死罪一等が減じられ、翌25年に佐渡へ流された。その後天皇の再度の倒幕計画(元弘(げんこう)の変)の際、北条高時(たかとき)は本間泰宣(ほんまやすのぶ)に命じ、資朝を斬(ざん)に処した。32年(元弘2・正慶1)6月2日のことであった。[小林一岳]

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世界大百科事典内の日野資朝の言及

【正中の変】より

…一方幕府も内紛と寺社勢力の敵対に苦しみ,各地では悪党が跳梁するなど,幕府の専制支配にも破綻が顕著となった。この機をとらえた天皇は日野資朝ら近臣とはかって反幕勢力を糾合して,討幕計画を進めた。24年(正中1)9月23日の北野祭を期して挙兵する手はずであったが,同志の密告により事前に発覚,同月19日土岐頼有,多治見国長は六波羅軍に囲まれて自害した。…

【花園天皇】より

… 病身の花園はしばしば隠居出家しようとしながら果たさず,後宇多の院政を批判,単なる博識や器用な文章を重んずる時流に反発しつつ文字の背後にある〈道義〉を求めて学問に没頭し,天台・真言の教義をはじめ浄土宗にも関心を寄せている。その中で日野資朝を知った花園は,これを通してのちに京都梅津の長福寺開山となった月林道皎を知り,禅宗に傾倒するとともに,資朝を重用する後醍醐の意欲的な政治に強い関心と期待を抱き,22年(元亨2)以後,資朝,菅原公時らと《尚書》の研究会をはじめ,《論語》《毛詩》などにも及んでいる。しかし後醍醐の〈綸旨万能〉の姿勢や宋学の学風に対して花園は批判的で,その《学道之書》に見られるように,博識,風月を排し,正統的な儒教の〈道義〉を追求しつづけ,正中の変(1324)で後醍醐に失望して以後,その態度を一段と強めた。…

【日野家】より

…藤原氏北家の流れ。右大臣内麻呂の息男真夏から出て,その孫家宗が山城国宇治郡日野の地に法界寺を創建し,家宗の5世の孫藤原資業(すけなり)が法界寺の薬師堂を建立し,それより日野氏を称した。公家としての家格は弁官を経て中・大納言に至る名家で,代々儒道および歌道をもって朝廷に仕えた。南北朝時代には俊光,資名,資朝が活躍し,室町時代には時光の女業子と孫女康子(北山院)が将軍足利義満の室となってから,9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったために勢力を張り,時光の子資康および資康の子重光は従一位権大納言に進んだ。…

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