坂田庄(読み)さかたのしよう

日本歴史地名大系 「坂田庄」の解説

坂田庄
さかたのしよう

現長浜市街の東方に比定される。奈良興福寺領坂田庄と青蓮院門跡領坂田庄が存在した。

〔興福寺領坂田庄〕

山階やましな町付近に比定されるが、現在春日神社の鎮座する大東おおひがし町付近を庄域としたとも考えられる。「玉葉」承安元年(一一七一)九月二三日条によると、「山階寺領坂田庄」を知行していた大江信遠が庄民を殺害し、興福寺政所使らに乱妨したため、同寺衆徒は信遠の流罪と所領の没収付与を要求している。寛喜三年(一二三一)禅林寺僧正は興福寺常喜じようき院領坂田庄に賦課された公卿勅使役免除を申請し、認められている(「民経記」同年九月二一日条)。文永(一二六四―七五)頃、興福寺は当庄に三〇人一〇日の人夫役を課したが、一〇人しか参上しておらず、その支配は安定していない(「興福寺人夫召注文」内閣本大乗院文書御参宮雑々)。同一〇年一二月九日、興福寺中綱が当庄に派遣されているが、これは地頭の狼藉に対するものであろう(「中臣祐賢記」同一〇年一二月九日条)。弘安八年(一二八五)五月二〇日に書写された興福寺維摩会不足米餅等定(興福寺文書)によると、薦一〇〇枚を賦課されている。嘉元元年(一三〇三)山僧慈俊・頼俊らが当庄などの年貢を点定したため神訴に及び、張本の両名は流罪、点定物は返却された(興福寺略年代記)

観応元年(一三五〇)興福寺維摩会仏供料のうち一二貫文分の米六石二斗五升を当庄が負担している(貞治五年九月二日「維摩会先奏引付」内閣文庫蔵)。年欠一〇月三日の宗性書状(東大寺所蔵文永九年跋華厳宗枝葉抄草五裏文書)に奈良大安寺領「坂田北庄」とみえ、延文五年(一三六〇)八月二九日には同寺領「坂田南庄」などに対する乱妨が(「興福寺別当孝覚挙状」御挙状并御書等執筆引付)、翌月二六日には興福寺維摩会料所兼奈良春日社領坂田庄に対する神沢次郎左衛門尉の乱妨が訴えられた(「同孝覚挙状」同引付)

坂田庄
さかたのしよう

「赤松記」によれば、播磨守護赤松政則が坂田の「くど寺」を宿所として鷹狩を行っている。政則はかねて病気療養中の身であったが、容態が急変し、明応五年(一四九六)四月二五日に同寺で死去したという(明応二年とあるのは誤記)。現福居ふくい久斗谷くとうだにに久斗山長円ちようえん寺、おくたにに久斗山西岸せいがん寺があり、いずれも比叡山延暦寺末の天台宗寺院である。両寺は「くど寺」の塔頭寺院であったものと推測される。

坂田庄
さかだのしよう

現坂田を遺称地とする。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状には筑後国一円の安楽寺(太宰府天満宮)領のうちに「坂田庄」とあり、その注記から「凶徒押領」の地となっていた。応安五年(一三七二)七月九日には「瀬高・坂田原」で菊池武安軍と今川頼泰軍の合戦が行われている(同年七月日「隈元政幸軍忠状」青柳種信資料/南北朝遺文(九州編)五)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報