日本歴史地名大系 「坂田庄」の解説
坂田庄
さかたのしよう
現長浜市街の東方に比定される。奈良興福寺領坂田庄と青蓮院門跡領坂田庄が存在した。
〔興福寺領坂田庄〕
現
観応元年(一三五〇)興福寺維摩会仏供料のうち一二貫文分の米六石二斗五升を当庄が負担している(貞治五年九月二日「維摩会先奏引付」内閣文庫蔵)。年欠一〇月三日の宗性書状(東大寺所蔵文永九年跋華厳宗枝葉抄草五裏文書)に奈良大安寺領「坂田北庄」とみえ、延文五年(一三六〇)八月二九日には同寺領「坂田南庄」などに対する乱妨が(「興福寺別当孝覚挙状」御挙状并御書等執筆引付)、翌月二六日には興福寺維摩会料所兼奈良春日社領坂田庄に対する神沢次郎左衛門尉の乱妨が訴えられた(「同孝覚挙状」同引付)。
坂田庄
さかたのしよう
- 兵庫県:加西市
- 坂田庄
「赤松記」によれば、播磨守護赤松政則が坂田の「くど寺」を宿所として鷹狩を行っている。政則はかねて病気療養中の身であったが、容態が急変し、明応五年(一四九六)四月二五日に同寺で死去したという(明応二年とあるのは誤記)。現
坂田庄
さかだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報