坂田村(読み)さかたむら

日本歴史地名大系 「坂田村」の解説

坂田村
さかたむら

[現在地名]高松市西春日町にしかすがちよう松並町まつなみちよう峰山町みねやまちよう西にしハゼまち紙町かみまちなど

東は御坊ごぼう川で馬場ばば村、むろ(二〇〇メートル)南麓でかみノ村・万蔵まんぞう村と接する。土居どい(天保九年御領分明細記・天保郷帳)ともよばれた。「和名抄」記載の香川郡坂田郷の遺称地。浄願寺じようがんじ山東麓に七世紀末創建とされる坂田廃寺があり、城下御坊町の無量寿むりようじゆ院の旧地と考えられる。小山に片山かたやま城跡がある。城主片山玄蕃・同志摩は香西元定の麾下で、羽柴秀吉の四国征討に際し志摩は喜岡きおか城に入り、宇喜多秀家を迎え撃って討死したという(南海通記)

寛永国絵図に坂田郷がみえ、ほかにおき中河原なかがわら勅使ちよくし・小山・橋詰はしづめを含む坂田郷の高は二千八三二石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では坂田ノ郷の高二千八四二石余。同一九年の高松領小物成帳では坂田村とみえ、綿二六匁。貞享高辻帳では一〇八石余。


坂田村
さかだむら

[現在地名]斐川町坂田

斐伊川が宍道湖に注ぐ河口の村。文政四年(一八二一)の出雲国十郡絵図(県立図書館蔵)によると、斐伊川は三流に分岐して宍道湖に注いでおり、当村は北の支流と中の支流の間の大きな島と、上鹿塚かみしづか村の東に陸続きに一部村域があり、南は三分市さんぶいち村。北東は郡境川を境に神門かんどしま(現平田市)、北西は斐伊川を挟んで同郡出来洲できす(現同上)に面している。斐伊川の沖積作用を利用した新田開発により西から徐々に陸化して、斐伊川の南の村となった。斐伊川東流以降、沖積平野が急速に形成された。斐伊川は宍道湖に注ぐまでに分流し、藩の政策とも相まって幾度も川違えにより流路を変えた。


坂田村
さかたむら

[現在地名]田上町坂田

町域の最南に位置し、北は河舟川かわふねがわ村・千苅せんがり新田、南は上条じようじよう(現加茂市)。永正年間(一五〇四―二一)頃の蒲原郡段銭帳(米沢市立図書館蔵)には「不作在 弐拾五町五段十束苅 同庄坂田条代官三人」とあり、天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には「早川式部丞分 坂田之内はうし村二カ所」とみえる。

慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)では「酒田村」一五七石三斗余、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)によれば毛付三七石・水入荒二三七石一斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)にも酒田村とあり、一七軒に計二石七斗五升の炉役が課されている。


坂田村
さかたむら

[現在地名]西山町坂田

北は二田ふただ村・池浦いけうら村・鬼王おによ村・黒部くろべ村、東は山地で三島さんとう善間ぜんま(現長岡市)、西は新保しんぼ村・北野きたの村、南は妙法寺みようほうじ村。地名伝承について、坂田神社が明治三年(一八七〇)椎谷藩役所に提出した由緒書に「昔、熊樫大明神は坂門神社と申候に御座候、坂門と申儀は本社物部神二田大明神通路之内ニ小坂御座候、右を坂門と申候(中略)往古は当村を坂門村と申候由に御座候。何時頃よりの事に御座候哉、坂門村訛り今坂田村と申候」と記す。元和二年(一六一六)から椎谷藩領であったが、一一代堀著朝の時に天明義民事件が起き、寛政四年(一七九二)村の半分が幕府領となった。文久元年(一八六一)寺社奉行所への上申書(久保家文書)によれば、幕府領は高二八一石三斗余で、脇野町わきのまち代官所支配。


坂田村
さかだむら

[現在地名]須坂市坂田町

現須坂市の中央部。東は汁垂しるたれ山と坂田山分水で灰野はいの村下灰野と境。南は坂田山・堂場どうば山稜線で灰野村大日向おひなた境。北は汁垂山・古城ふるじよう大偽おおぎ山)鎌田かまだ山稜線で日滝ひたき村境。鎌田山・坊主ぼうず山の線で小山こやま穀町こくまち(上新田)南原みなみはら境。南西は三原道(重複する大笹道は南部で分岐)境で南原と境す。須坂扇状地の扇頂部右扇側にあたる。


坂田村
さかだむら

[現在地名]安来市上坂田町かみさかだちよう下坂田町しもさかだちよう

赤江あかえ村の東(飯梨川右岸)と南(同川左岸)の二地区に分れ、右岸地区を下坂田(村)、左岸地区を上坂田(村)とよぶ。中世には一帯に坂田郷が成立していた。正保国絵図飯島はしま村の近くに「坂嶋村」がみえるが、これが当村にあたるか。慶安四年(一六五一)の坂田村検地帳によると、上々田四町六反余・分米高七四石余(一石六斗代)、上田一一町三反余・一七〇石余(一石五斗代)、中田一五町八反余・二〇五石余(一石三斗代)、下田二一町八反余・二四〇石余(一石一斗代)、下々田一一町七反余・七〇石余(六斗代)、新下々田二町七反余・一〇石余(四斗代)、上畑一町三反余・一二石余(九斗代)、中畑二町三反余(七斗代)、下畑二町八反余・一四石余(五斗代)、下々畑四町余・一二石余(三斗代)、田畑計七八町七反余・八二六石余、屋敷数二六(うち御役目屋敷一一)


坂田村
さかたむら

[現在地名]船岡町坂田

上船岡かみふなおか村の南に位置する。当村以南の大江おおえ川流域一帯は大江谷と称された。拝領高は三八〇石余、本免は五ツ三分。坪井・能勢・村上・織田・西野の五氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば支村池田があり、家数は六〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四八二石余、竈数四八(うち医師一)。文化九年(一八一二)大江川上流の橋本はしもと下野しもづけ栃谷とちだにの三ヵ村から流される材木によって、対岸にある田地への往来に支障を来すとして、近隣の塩上しおのうえ水口みなくち殿とのの三ヵ村とともに相論を起こしたが、堰落しが終わった後、翌春の「堰入」までは「流木勝手次第」とすることなどが決められた(在方諸事控)


坂田村
ばんだむら

[現在地名]館山市坂田

洲崎すのさき村の東に位置し、北はかがみヶ浦に臨む。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一八九石余(うち田九二石余)。同一五年の里見家分限帳では里見氏隠居領。寛永二年(一六二五)一〇月の知行宛行状で当村高一五一石余が旗本小浜弥十郎守隆に与えられたが、同年一二月の知行宛行状では同様に当村高一五一石余は旗本石川正次に与えられている。


坂田村
さかたむら

[現在地名]福山市千田せんだ町坂田・向陽こうよう

神辺かんなべ平野から福山城下蔵王ざおう山塊を越える藪路やぶろ峠の西、芦田あしだ川の東に位置する山間の小集落。天正一四年(一五八六)二月二八日付毛利輝元宛行状(「譜録」所収高洲五左衛門家文書)によれば、このとき坂田のうち三〇貫の地が高須弥三の給地とされている。元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば八五石余、元禄一三年(一七〇〇)の検地で一五六石余となる。「福山志料」によれば反別二五町余、うち畠一八町余、三六戸・一五一人。

中世末期の坂田城跡があり、馬屋原氏が居城している。


坂田村
さかたむら

[現在地名]山鹿市坂田

北部を菊池川が西流し、西境を玉名たまな郡との郡境である坂田川が北流、東は小原おばる村、南は米野めの(現鹿本郡鹿央町)榎原えのきばる(現玉名郡菊水町)と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一五町五反六畝余・畠屋敷一三町八畝余・屋敷筆数八、分米二七八石一斗余。正保郷帳では高二七八石一斗余、うち田一九二石五斗余・畠八五石五斗余とある。近世は山鹿手永に属する。「国誌」に高二八五石二斗余、「役神村栃木村等小村アリ」とあり、「肥集録」には柿本・役神の小村を記す。文政九年(一八二六)の山鹿手永書付では竈数七二・人数三八五、馬五一、札一・馬口労一・杣二・木挽二・大工五・給人一。


坂田村
さかたむら

[現在地名]和歌山市坂田

名草なくさ郡に属し、北は和田わだ川に接し、福飯ふくいいヶ峯の西南、田尻たじり村の東にある。永仁三年(一二九五)三月二三日付和太郷検田取帳並検畠取帳写(紀家蔵)に坂田がみえ、中世は日前国懸ひのくまくにかかす宮領和太わだ郷に属した(→和田村。慶長検地高目録によると高五二八石余、小物成二九・二〇六石。「続風土記」では家数六〇、人数二八四、宮組に属した。


坂田村
さかだむら

[現在地名]君津市東坂田ひがしさかだ一―四丁目・西坂田にしさかだ一―四丁目・坂田・君津台きみつだい一―三丁目

大和田おおわだ村の東に位置し、北は江戸湾に面する干潟。房総往還が通り、北東の畑沢はたざわ(現木更津市)に向かう。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三六三石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七六、旗本小笠原領と幕府領。旧高旧領取調帳では小笠原領。寛保元年(一七四一)には人見ひとみ浦とともに小笠原氏から地引網一帖を請負い、運上金一二両を納めていた(「相渡地引証文事」富津漁業史)


坂田村
さかたむら

[現在地名]桶川市坂田

桶川宿の東にあり、東は台地の縁辺部を境に舎人とねり新田、北も同じく台地の縁辺部で上加納かみかのう村・下加納村。元和九年(一六二三)の伊奈忠治新田開発手形(本学院文書)に「坂田」とある。同地内の新田開発にあたって村内の修験本学ほんがく(本学院)に特権を与え、新田移住者の堤井堀普請以外の諸役免除、年貢は初年度免除、二年目から少しずつ納めればよく、自由な身分の牢人の受入れ、種借りの無利息などが認められている。田園簿では田六五石余・畑一三八石余、幕府領。


坂田村
さかだむら

[現在地名]瀬高町坂田

吉岡よしおか村の東、大塚おおつか村・草葉くさば村の西方に広がる平野部にある。下妻しもつま郡に属する。安楽寺(太宰府天満宮)領坂田庄の遺称地。文禄四年(一五九五)の知行方目録には坂田村とあり、高七九三石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別八〇町三反余・分米七三一石余、村柄は中とある。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高一千三一石余、小物成は山年貢米三石余。


坂田村
さかたむら

[現在地名]稲沢市坂田町

東は目比むくい村に接し、西境を三宅みやけ川が流れ、天保村絵図では大塚おおつか井筋の東側の地高に人家が集中していたが、村の東は低く水損があった(徇行記)

康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に七貫八六七文の納入者として「武田兵庫頭殿尾張国坂田庄同高鳥村段銭」とみえる。天正末には織田信雄の家臣陸田市左衛門の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高七六七石余で、三六七石余は藩士八人の給知。


坂田村
さかたむら

[現在地名]大泉町坂田

東は上小泉かみこいずみ村・下小泉村、西は古氷ふるこおり村、南は吉田よしだ村・寄木戸よりきど村、北は新田につた東別所ひがしべつしよ(現太田市)に接する。休泊きゆうはく堀の分流が古氷村より入り、北部を東流して上小泉村に至る。ほぼ中央部を東西に新田郡尾島おじま(現尾島町)と館林を結ぶ道が直通する。近世初期は館林藩領。


坂田村
さかたむら

[現在地名]明日香村大字坂田

祝戸いわいど村南方、丘陵北面の傾斜地に位置する。「日本書紀」用明天皇二年四月二日条、同推古天皇一四年五月五日条に「南淵坂田寺」の名がみえる。坂田は南淵みなぶちの領域に属したらしい。「元亨釈書」に「司馬達等、(中略)於和州高市坂田さかだの原、結草堂奉仏」とある。


坂田村
さかだむら

[現在地名]有明町大字坂田

杵島山南端の東麓に位置する。正保絵図に村名がみえる。干拓による開発地が多い。

もともと古墳時代からの開発地域と考えられ、竜王崎りゆうおうざき古墳群の被葬者の中心集落ではなかったかと思われる。


坂田村
さかたむら

[現在地名]高浜町坂田

子生こび村の西、妙見みようけん(佐伎治山)の南の谷あいにある小村。「若狭郡県志」に「坂田村属木津庄、去小浜五里余也」とあり、正保郷帳によれば田方五三石余・畠方二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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