安楽寺(読み)アンラクジ

デジタル大辞泉 「安楽寺」の意味・読み・例文・類語

あんらく‐じ【安楽寺】

長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺。安楽護聖禅寺。平安時代円仁の開創と伝えるが、天正年間(1573~1592)、高見順宗が再興して曹洞宗となる。八角三重塔は国宝。別所観音

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精選版 日本国語大辞典 「安楽寺」の意味・読み・例文・類語

あんらく‐じ【安楽寺】

  1. 長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺。山号は崇福山(万福山とも)。天長年間(八二四‐八三四)円仁の建立と伝えられる。樵谷惟仙(僊)が中興。国宝の八角三重塔がある。別所観音。

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日本歴史地名大系 「安楽寺」の解説

安楽寺
あんらくじ

[現在地名]美馬町 中山路

郡里こおざと地区の西部、吉野川北岸の河岸段丘上、字中山路なかやまじにある。千葉山妙音院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺地付近は古代美馬郡衙の所在地であったとも伝える。「阿波志」によると、古くは天台寺院で真如しんによ寺と号していたという(ほかに妙音寺と号していたとの所伝もある)。寺伝によると、宝治元年(一二四七)の宝治合戦で三浦氏に与同して敗れた千葉氏の一族千葉常重は、姻戚の阿波国守護小笠原長清を頼って阿波に来て、真如寺に入寺、同寺を浄土真宗に改めて再興したという。「阿波志」はのち長清の子長房が寺領一二貫を寄進したとし、寺伝には寺領一千貫と梵鐘を寄進されたとある。室町期には細川氏、また戦国期は三好氏と姻戚関係を結んだ。阿州三好記大状前書(徴古雑抄)には寺領一三貫文を有し、門徒宗の触頭寺で下寺一五ヵ寺を隷したと記され、寺蔵の安楽寺由緒覚書にも同様の記事がある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]青梅市成木

軍荼利ぐんだりにある。成木山愛染あいぜん院と号する。真言宗寺院で、現在法人上は仏教系単立。和銅年間(七〇八―七一五)行基が一宇を建立したのが始まりという。平安後期の木造金剛力士立像・木造伝金剛力士立像や、鎌倉前期の木造軍荼利明王立像があり、いずれも都指定文化財。本尊不動明王像は南北朝期作とされる。貞治二年(一三六三)筆写分を最古とする大般若経が当寺の唐櫃三合に所蔵され、その五二三巻の康暦二年(一三八〇)六月一二日の奥書には「杣保成木郷軍荼利安楽寺」とあるほか、私市氏の名を記す奥書もみられる。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]北区大森東町

金輪山小野院と号し、真言宗東寺派であったが、現在は無住。本尊は慈覚大師(円仁)作と伝える薬師如来坐像。所伝によると惟喬親王の建立。「山城名跡巡行志」には、本尊薬師仏の厨子内に阿弥陀・不動の木像が、また本堂前に暦応四年(一三四一)と明応五年(一四九六)の二度の銘をもつ鐘楼があると記されるが、いずれも現存しない。

元禄八年(一六九五)三月に京都東町奉行に差出した安楽寺五座下書(今北家文書)によれば、本堂内には本尊に向かって右に惟喬親王の神輿、左に親王の位牌を安置していたという。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]上田市大字別所温泉

曹洞宗、崇福山と号す。本尊釈迦如来。国宝八角三重塔、重要文化財樵谷惟仙(開山)・幼牛恵仁(二世)頂相などがある。

草創は寺伝によると天長年間(八二四―八三四)と伝え、別所三楽寺(安楽・長楽ちようらく常楽じようらくの三寺)の一つとして開かれたという。京都東福とうふく寺霊雲院所蔵の「集古録」に、鎌倉建長けんちよう寺開山蘭渓道隆が塩田安楽寺長老にあてた書状に「前月参謁の時、両旬の間、伏して芳志の極厚なるを蒙り感悦良に多し」とか「御礼到来、委細謹しみて承り候い了んぬ。(中略)また杏仁一斗、善光寺上品の花鉢一点、梨子給い候こと有難く感悦無極に候」などとある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]上板町引野

阿讃あさん山脈南麓、引野ひきの地区南西にある。温泉山と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来。四国霊場八十八ヵ所第六番札所。御詠歌は「かりの世に知行争ふむやくよりあんらく国のしゆこをのそめよ」。当寺から北へ安楽寺谷を一キロほど登ったところの中腹に古瓦などが出土する寺跡があり、この地に鉱泉が出ていたことから、この寺を温泉山安楽寺と号していたという。寺伝によると、空海巡錫のみぎりに難病で苦しむ人たちのためにこの湯泉の功徳を説き、堂宇を建てて薬師如来像を刻んで本尊としたことに始まるという。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]高知市洞ヶ島町

薫的くんてき神社の東側にある。真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来。一宮いつくにある四国八十八ヵ所の三〇番札所善楽ぜんらく寺の奥院で、御詠歌に「人多くたち集まれる安楽寺昔も今も栄えぬるかな」と歌われる。菅原道真の長子高視が、父の菩提のために当初潮江うしおえ村に建立したというが、その後升形ますがた辺り、さらに久万くま、次いで当地へと転々と移った。

安楽寺の名は、建武三年(一三三六)六月二九日の佐伯経貞軍忠状(蠧簡集拾遺)をはじめとする文書にみえ、この寺の所に、南朝方の大高坂おおだかさ城に対する北朝方の向城として安楽寺城を造ったことがみえる。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]吉田町河内

河内川南側の山麓から山腹にかけて広がる集落の上端に位置し、北側に河内川沿いの平地部を望む。清涼山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来三尊。

安楽寺の所在地の小字を登蓮寺谷とうれんじだにという。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」によれば、かつてここに登蓮寺とよばれる寺があった。応永三二年(一四二五)西園寺住周を大旦那として開眼供養された毘沙門天像は、寺の崩壊とともに安楽寺に移され、跡屋敷も安楽寺に所属した。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]大垣市赤坂町

かち(かつては岡山)の東中腹に位置する。浄土宗に属し、紫雲山永明院と号する。本尊は阿弥陀如来。推古天皇元年聖徳太子の創建という。壬申の乱の際、大海人皇子は当寺の住職生賢をして合戦の勝利を祈願、乱後大友皇子追悼のため宝篋印塔を建立し、寺院を再興したと伝える。当寺は初め法相宗に属し、文治元年(一一八五)山の北東に堂宇を移転した際に浄土宗に転じたという。応仁の乱の際、足利義視は革手かわて(現岐阜市)に難を避け、土岐家の家宰斎藤妙椿の保護を受けたが、斎藤家に内紛が生じたため当寺に難を避けたと伝える。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]田原町野田 神成

西円さいえん寺の西隣にあり、野林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内一千一九七坪、もとは西円寺支配の説教道場で、天文二三年(一五五四)の今川義元の寺領証文(太平寺蔵)に、

<資料は省略されています>

とあり、この証文の宛所上宮じようぐう(現岡崎市)保井ほいの西円寺の中本山で、今方いまかた神戸かんべ・田原の三道場は西円寺支配の説教所であった。今方道場は慶長年中(一五九六―一六一五)に独立して寺号を安楽寺と称した。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]野村町野村

村から城川しろかわ魚成うおなしに通ずる道の左側、山沿いの閑静な地にある。もと野村西の谷にしのたににあったという。

「宇和旧記」は医王山安楽寺は本尊薬師、曹洞宗とし、開基は正応六年(一二九三)で、応永二一年(一四一四)に現在地に移転したという。同二三年に仏殿が建立された。「東宇和郡沿革史」は移転の時に本尊を阿弥陀如来に改めたという。また元禄二年(一六八九)薬師如来を禅堂に移して本尊を阿弥陀如来とし、山号を医王山から雲林山に改めたという。享保九年(一七二四)野村庄屋の緒方惟重は白木城主の宇都宮氏一族の墓を同寺にまとめ、供養している。寺は寛政元年(一七八九)九月七日と、天保三年(一八三二)三月一五日に火災で焼けている。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]丹後町此代

山号海平山、曹洞宗、本尊阿弥陀如来。此代このしろ村の檀那寺であった。草創はつまびらかでないが、寺伝によればもとは真言宗で上山うえやま上山じようさん寺末であったという。改宗の時期は天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳に「曹洞宗 此代村 安楽寺」とみえるので天和以前であろう。

境内に宝篋印塔があり、その一基に至徳四年(一三八七)の年号がみられる。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]左京区鹿ヶ谷御所ノ段町

霊鑑れいかん寺の北に位置する。住蓮山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属したが、現在は単立寺院。前身は現地より東の山中へ二〇〇メートルばかり入った山上にあり、法然の門徒住蓮・安楽の念仏道場であった(坊目誌)。この道場は建永二年(一二〇七)に起きた専修念仏・六時礼讃の禁圧による法然法難の発端の舞台として知られる。住蓮・安楽の事件は「愚管抄」巻六で、慈円が次のように記している。

<資料は省略されています>

専修念仏者の唱えた六時礼讃の哀調が世人に深い感銘を与えて巷間にもてはやされ、かねてから法然と対立する奈良興福寺は諸宗衰微の張本として指弾した。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]能登川町能登川

伊庭いば山の中腹にある天台宗寺院。繖山無量寿院と号し、聖徳太子が近江に建てた四八寺院の第一番という(輿地志略)。本尊は千手十一面観音。当寺と末寺閻魔堂(現十応寺)は八王子法橋および五人衆・十六人衆によって維持運営された。八王子法橋伝来文書によれば、諸事評定は東座・西座の両座で行い、本堂造営のため両座から四人の僧が中国へ渡海したが、帰朝の際難破したという(年欠伊庭安楽寺先規置文案)。貞和五年(一三四九)一一月に衆徒方と行人方が礼法と田畠下作職のことで争い、伊庭氏の仲介があったことを示す史料のほかは、寄進状や売券が多く、永和二年(一三七六)一二月、宝徳四年(一四五二)一月、応仁元年(一四六七)一一月など三七点ほどを数える。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]稲沢市船橋町

三宅みやけ川に面する。大悲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊十一面観音。境内七四七坪。天平一三年(七四一)国分寺建立の時、四方に平楽へいらく寺・正楽しようらく寺・長楽ちようらく寺・安楽寺の四楽寺を建立したと伝え、当寺は国分寺の北にあたる。もと観音堂と号し、至徳元年(一三八四)安楽寺と改め、妙興みようこう(現一宮市)円光大照(滅宗宗興)中興開山とした(稲沢市内寺院調)というが、延文四年(一三五九)の宗暁置文(妙興寺文書)に「船橋安楽寺、同滅宗和尚、為管領可有興行沙汰矣」とすでに寺名がみえる。江戸期の山号は玉竜山(寛文覚書)。明治二四年(一八九一)濃尾大地震で倒壊し、旧形のまま再建された(稲沢市内寺院調)


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]稲沢市奥田町

奥田山と号し、真言宗豊山派、もと長野万徳ながのまんとく寺末。本尊阿弥陀如来。境内一千一四七坪。天平勝宝元年(七四九)行基の創建で、永仁年中(一二九三―九九)中興開山勝円の再建。天正年間(一五七三―九二)頃には荒廃して一院のみが残り、延享五年(一七四八)秀栄が字円蔵坊えんぞうぼう(現大里中学校敷地)より移した。この記念に立てられた宝篋印塔がある(徇行記、尾張名所図会、稲沢市内寺院調)。宝永三年(一七〇六)本尊阿弥陀坐像の修理で、正和元年(一三一二)一〇月の胎内銘が発見された(塩尻)


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]南知多町日間賀島 里中

永峯山と号し曹洞宗、本尊聖観音は青磁陶像。寛政六年(一七九四)の当寺記録によれば、明応三年(一四九四)九州の僧月伝が背負ってきた高さ約一三センチの聖観音を当寺に安置し、以前に居住した寺の名をとって安楽寺と称したという。もと天台宗であったが、遠州みつ(現静岡県引佐郡三ヶ日町)金剛こんごう寺から心翁が来住し、慶安四年(一六五一)曹洞宗に改めた。

別堂の阿弥陀如来は「蛸阿弥陀」と称し、貞観四年(八六二)大地震で本島と佐久さく(現幡豆郡一色町)の間にあった大磯(現在は干潮の時わずかに現れる)が陥没し、そこにあった筑前ちくぜん寺の本尊胎内仏が島の漁夫の網にかかり、大蛸に抱かれたまま引揚げられたもの。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]福山市明治町

福山城跡の南方、近世西にし町と通称された地域の南端にある。正覚山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。山城宇治槙島まきのしま城主で、足利義昭に従って備後に下り神島かしまに住した槙島兵庫が願主となって、弘治三年(一五五七)法然ゆかりの地、神島に重誉を開山として建立したのに始まる。福山城下形成にあたり、神島の住民を城下に移住させて神島三町を形成、元和七年(一六二一)当地に移建された。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]三重県熊野市有馬町

産田うぶた神社の東方三〇〇メートルの山麓にある。長生山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「続風土記」に「熊野五箇寺の一にして郡中曹洞一派の指揮をなす、近郷の大寺なり」とある。縁起書によれば、文安元年(一四四四)周防国竜文りゆうもん(現山口県徳山市)の僧海雲が熊野権現に参拝し、次いで産田神社に詣でた。有馬和泉守は海雲を城中に招いて帰依し、当寺を創建したという。同三年七堂伽藍が落成したが、天正年中(一五七三―九二)兵火にかかり焼失。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]丸山町丸本郷

丸山川右岸にある。吉祥山極楽院と号し、本尊虚空蔵菩薩。天台宗。もと石堂いしどう寺末。縁起によれば元永年間(一一一八―二〇)土豪丸氏の草創と伝え、もと西原にしばらにあったとの口碑がある。同氏の菩提寺であったが、嘉吉年間(一四四一―四四)丸信朝が勝山かつやま(現鋸南町)城主安西景春によって滅ぼされ、寺勢も衰退したといわれる。享保四年(一七一九)に石堂寺末となる(御子神家文書)


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]岩出町岡田

岡田おかだ集落のほぼ中央にある。新義真言宗、梅生山と号し、本尊は十一面観音。「続風土記」は「境内に天満宮及白山権現小社あり、当寺開基年月詳ならす、古は諸伽藍多く有しに天正の兵火に罹りて縁起宝物等まて皆灰燼となれり」と記し、さらに「境内に在す天満宮は筑紫より勧請し奉りたる菅神にて、梅の木も其時に筑紫より移し栽ゑたる木なるへし、然れは安楽寺は即菅廟の別当寺にて筑紫の名によりて名つくるなり、然るに後世その本末を倒置して安楽寺を主となして菅廟を寺内の鎮守の如くなし来れるならん」と記す。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]三重県海山町島勝浦

島勝浦しまかつうら東はずれの山麓にある。円通山と号し、曹洞宗。本尊観音菩薩。「北牟婁郡地誌」に「開基創建ノ年暦不詳、尋テ元和年間僧的道中興ス。当寺本尊ハ中世ニ本郡尾鷲中井浦金剛寺ノ本尊ト故アリテ交換シ今観音ヲ典ス。寺旧時ハ寺録・古器等全備セシカ、万治二年ノ火禍ニ罹リ概ネ烏有ニ帰シ、余什器モ宝永四年降テ嘉永七年両度ノ津浪ニ遭遇シ過半流失、今僅ニ存スルモノ菅原道実朝臣ノ画像一幅、和歌懐紙五葉及土器寿杯二枚、紺紙金泥観音経一巻、縁起二軸ナリ」とある。「続風土記」は「安楽寺村中にあり、本尊はもと十一面観世音、恵心の作といへり、此寺の縁起今尾鷲郷中井浦金剛寺にある所、則これなりと言へり」と記す。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]唐津市呉服町

呉服ごふく町の北端、町並の東側にある。護念山と号し真宗大谷派。「松浦記集成」に「京都本願寺譜代端坊者、大閤秀吉御定の名古屋六坊の中の瑞一也。文禄元年秀吉朝鮮征伐の時、毛利駿河守元春三男端坊順了と号す。名護屋御陣に於て格別御懇意也。折々御伽に召されたり。其の連中に端坊・竜源寺・竜泉寺・浄泰寺也。名古屋端坊境内に六坊在、善海坊本勝寺、順海坊安浄寺、竜泉坊正円寺、了善坊行因寺、了休坊伝明寺、永元坊は還俗して今其末新町に在り」とある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]府中市目崎町 仲谷

山号猪子山、真言宗御室派、本尊薬師如来、もと栄明えいみよう寺末。寛徳元年(一〇四四)遍照開基と伝える(旧版「広島県史」)。「福山志料」に「慶長三年伊勢配札帳ニ安楽坊ト云」とみえ、元禄一二年(一六九九)の検地の際差出した書付(「備陽六郡志」所収)に、慶長二年(一五九七)本尊などを残して諸堂宇を焼失、まち村栄明寺の宥仙が再建のできないのを憂え、当寺に転住して再建、毛利輝元は二〇余石を寄進したが、福島氏のとき没収され寺内も大破、「諸人これをあはれにおもひ自林の中に畑一反五畝余をひらき御検地之願申上候処、先領主水野美作守様より無相違以前之通被仰付ける間、此度の御検地にても御除可被下候」とその後の寺歴が記される。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]吉見町御所

御所ごしよの北西部、吉見丘陵の中腹に位置し、真言宗智山派。岩殿山光明院と号し、本尊は聖観音。当寺観音堂(吉見観音)は坂東三十三所の一一番札所。寺伝によれば開基は坂上田村麻呂。この開基伝承は別として、当寺僧観秀が著した吉見岩殿山略縁起(寺蔵)によれば、源範頼は平治の乱の後、当地に潜在したという。「尊卑分脈」には範頼の子頼円は吉見中納言・順大寺阿闍梨と称し、一族の多くとともに出家しているから、建久四年(一一九三)の範頼没後、一族によって当寺が創建されたとも考えられよう。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]芦屋町山鹿

山鹿やまがの旧三軒屋さんげんや町にある浄土真宗本願寺派の寺院で、金竜山と号する。本尊は仏師春日作とされる阿弥陀如来。寺伝では元暦元年(一一八四)山鹿秀遠の創建という(地理全誌)。初め金竜山神護じんご寺と称し、真言宗であったが、宗像氏の家臣某(玄宿とも順教とも伝える)が真宗に改め再建したといい、再興は元亀元年(一五七〇)のことという(続風土記附録・地理全誌)


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]羽合町宇野

宇野うのの中央に位置する。青柳山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、もと伯耆一宮(現東郷町の倭文神社)の神宮寺の別当を勤めた恵順によって、丘陵南麓の僧ヶ谷に創建された正来院を前身とするという。天正年中(一五七三―九二)に字宮ノ前付近に移り、薬師如来を本尊としたと伝える。承応二年(一六五三)二世恵日が真宗に改称したという。なお「本福寺門徒記」によれば、大永四年(一五二四)の頃、「ウノ」などを拠点として本福ほんぷく(現滋賀県大津市)門徒が布教したといい、当地には近藤五郎衛門が六、七〇人を同行して道場を建立したとされ、当寺の創建にかかわるとも推定される。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]芦原町北潟

北潟きたがたのほぼ中央、北潟湖を眺望する台地上にある。高野山真言宗。祇園山と号し、本尊薬師如来。寺伝によれば、養老三年(七一九)泰澄の開基という。「越前国名勝志」には「当国四ケ所ノ真言宗ノ古跡ノ内ナリ、其四ケ寺ハ三国性海寺滝谷寺、福井木田松尾山持宝院ト当寺ナリ」とあって、古くには栄えた寺であったようである。天正二年(一五七四)の一向一揆によって焼亡、その後衰微したというが、江戸時代前期の成立という「越前国寺庵」は、塔頭として「明王院 秘鍵寺 尭円坊 成就院 玉蔵院 才順坊 俊覚坊」を記している。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]河北町谷地

谷地やちかのえにあり、横超山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。開基の釈浄心は文禄二年(一五九三)に死亡している。俗名を名和宗介といい、当初岩木いわき村に寺基を定めたという。その後火災にあい、元禄一五年(一七〇二)新庄藩主戸沢家から下工藤小路しもくどうこうじ村に寺地を与えられた。当寺には本願寺顕如と同教如の請取状五通が残る。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]吉備町井口

竜城山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。文明年間(一四六九―八七)長田ながた(現吉備町)の小字御坊屋敷ごぼうやしきに建てられた真宗道場に始まると伝える。文化四年(一八〇七)の安楽寺由緒書上帳(寺蔵)に載る元和八年(一六二二)成立の縁起は、蓮如が文明八年春の熊野参詣の帰途、長田村の平右衛門宅に止宿したことに道場草創と結びつけているが、蓮如消息によれば蓮如の紀州下向は文明一八年のことである。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]大塔村大字中原

中原なかばら集落の西部にあったが現在廃寺。もと古義真言宗、紀州高野山毘沙門院末の寺院。山号は岩谷山。本尊は不動明王。八幡神社の神宮寺として栄えたという。宝蔵には鎌倉・桃山時代の大般若経と唐櫃などがある。大般若経櫃は脚付、六箱完備で、各箱の裏に三行墨書「和州吉野郡十二林中原惣旦那 大明神大般若経御宝殿 天正参乙亥応鐘軫宿戊子廿三日恵存」がある。大般若経は巻子本でほとんどは春日版であるが、書写本で補足されたものもある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]中津村三佐

日高ひだか川左岸山際にある。国精山降崇院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。九品寺同末寺由緒書(九品寺文書)によれば、近世には小松原こまつばら(現和歌山県御坊市)九品くほん寺の末寺であるが、開創については不詳という。しかし墓地には室町時代の宝篋印塔や五輪塔が残存し、同地に真言宗か禅宗の寺院があったと考えられる。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]赤来町下赤名

下市しもいちの東側にある。小滝山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。開基は小滝少弐義宣で、応仁二年(一四六八)備後国沼隈ぬまくま山南さんな(現広島県沼隈町)に一宇を建立、天文(一五三二―五五)末頃下赤名しもあかな村へ移転したと伝える。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]今立町大滝

大滝おおたき神社の門前にあって、もと大滝寺四十八坊の一寺。赤岩山と号し、天台真盛宗。本尊は阿弥陀如来。大永年中(一五二一―二八)の大滝寺々庫収納田数帳(大滝神社文書)に寺名がみえ、文亀三年(一五〇三)の幸宥等連署状、天文一三年(一五四四)の朝倉景伝書状(以上、同文書)などにも「大滝安楽寺円鏡坊」とある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]室蘭市常盤町

絵鞆えとも半島の中央南側、道道祝津しゆくづ西小路にしこうじ中央ちゆうおう線の北側に位置する曹洞宗寺院。山号は室蘭山、本尊は釈迦如来。明治一五年(一八八二)三月、曹洞宗宗務本局から派遣された浅野義件は室蘭巡教の折、熱心な信徒に出会い一寺開設を決心した。翌一六年一月安楽寺の寺号公称を申請し、同年正式許可を得た。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]新宮村上山 鳩岡

木颪きおろし谷に沿って建てられている。真言宗。無量寿山と号し、本尊は阿弥陀如来。「伊予温故録」には「安楽寺 上山村に在り空海の開基なりと云ふ」とある。また「伊予国宇摩郡地誌」には「村ノ中央寺内ニアリ弘治元乙卯年七月本村ノ住人日野種資之レヲ創建ス紀伊国高野山金剛峯寺末寺」とある。日野豊田系図によると、もと大窪おおくぼにあった禅宗の栖雲せいうん寺の寺内に種資が天正一一年(一五八三)に真言寺を取り立て寺地田畑を寄進したのが始めとあり、創建年代に違いがある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]橿原市葛本町

至心山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。建久三年(一一九二)法然の弟子久野作仏房が字不経堂ふきようどうに創建、正徳三年(一七一三)現地に移し、至心山願生がんしよう院安楽寺とした。俗に葛本くずもとの墓寺とよばれる。薬師如来(平安後期)・阿弥陀如来(平安後期)・行基像(江戸時代)・弁才天画像(室町時代)など優れた文化財が多く、鎌倉時代の宝篋印塔、天文二二年(一五五三)・永禄一二年(一五六九)の石仏もある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]南那須町田野倉

田野倉たのくらの北東部にあり、医王山宝生院と号し真言宗智山派。本尊は不動明王。寺伝によれば大同二年(八〇七)当地方を巡錫中の徳一により創建されたといい、のち一時退廃したが、文明一八年(一四八六)筑紫大安楽寺の賢海が当地を訪れた折に伽藍を再建、現寺号に改め不動明王を本尊としたと伝える。近世、准談林の寺格を与えられ一三の末寺を数えたという。「荒川村郷土誌」によれば、領主の旗本大田原清勝(政種)は当寺を祈願寺とし、寺領若干を寄進、元禄二年(一六八九)には清勝、夫人千代子両人の本願をもって薬師如来・不動明王二尊の堂宇を修復、元文五年(一七四〇)宥聖の代に厨子を新たに調え、薬師如来を安置したという。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]坂祝町大針

大針の中屋おおはりのなかやにある。吉祥山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音。延暦一〇年(七九一)天台宗延暦寺の僧妙吉祥覚法が、洞山と称する所に聖徳太子の作で木曾義仲の守本尊と称する像を奉持して来て、村人の協力を得て堂宇を創建したのが始まりと伝える。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]水戸市元吉田町

吉田よしだ神社の東南方にある。菩提山浄土院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。建保四年(一二一六)唯誓房の開基と伝えるが、寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)には「此寺元和二卯年宗玄代大戸村ニ新寺ヲ立申候在郷ニ旦那遠御座候ニ付寛永二丑年当所へ寺引越御年貢所々罷有候侍旦那三人町旦那百廿人百姓旦那卅二人」とある。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]清水町二川 南原

南原みなみばらにあり、光明山遍照院と号する。高野山真言宗で、本尊薬師如来。もと東光とうこう寺といい、嘉暦年間(一三二六―二九)に安楽寺と改めたと伝える。当寺の多宝小塔は国指定重要文化財。造立年代は不詳であるが、様式・手法から室町時代前期と推定される。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]西木村小山田 八津

国鉄角館線八津やつ駅に近く、境内に樹齢四五〇年といわれるオンコの巨木がある。曹洞宗、八華山と号し、本尊釈迦如来。

開山の角館天寧かくだててんねい寺一三世住職は明暦三年(一六五七)没というが、藩政期以前のこの地方の領主の戸沢氏との関係が深いと伝えられる。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]蒲郡市清田町 門前

楠林山和合院と号し、浄土宗。応永一五年(一四〇八)宏山竜芸の開基といい、以前天台宗の勧学院と称していたものを改宗したという。永禄五年(一五六二)上之郷かみのごうの鵜殿氏に代わって入部した久松氏の上之郷経営の中心とされたといわれる。「静里村誌」所引の「万宝雑記」に「蒲形庄城主鵜殿長門守亡ビ、尾州阿古居ノ城主久松佐渡守長家ヲ蒲形城主トナシタル節、当寺ヲ長家ノ菩提所ト定メラルトアリ」という。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]御所市大字稲宿小字古安寺

葛城かつじよう寺の北東に所在。葛城山と号し、高野山真言宗。もと法相宗。本尊十一面観音。境内に大日だいにち堂といわれる三重塔の初層が残り、桁行三間・梁間三間、一重・宝形造・本瓦葺。「葛城寺縁起」によると、延宝年間(一六七三―八一)に三重塔の九輪が墜落し、上の二層を失い下層のみをとどめたという。


安楽寺
あんらくじ

[現在地名]龍ケ崎市川原代町

小屋こやにある。恵雲山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。大同二年(八〇七)の創建と伝え、当寺蔵の文和二年(一三五三)の鰐口(県指定文化財)銘に「総州相馬郡河原代安楽寺」とある。文化一二年(一八一五)の屋根替帳(川原代区有文書)によれば茅葺の大門・鐘楼堂・地蔵堂の屋根替えに要した経費は約四五貫文で、四分の三は高割、残りは戸数割で河原代村全戸に割当てられている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安楽寺」の意味・わかりやすい解説

安楽寺
あんらくじ

長野県上田市別所温泉にあり、曹洞(そうとう)宗に属する寺。崇福山護国院と号する。本尊は釈迦如来。平安時代に安楽、常楽、長楽の三楽寺の一つとして創建されたと伝え、現在は安楽寺と常楽寺が残る。1288年(正応1)北条時頼(ときより)が樵谷惟仙(しょうこくいせん)を招いて中興開山とし、桃山時代に高山順宗が臨済(りんざい)宗より曹洞宗に改めた。北条氏の外護(げご)を受けて鎌倉時代にもっとも栄えた。山腹にある八角三重塔は純粋な禅宗様式で、国宝に指定。惟仙和尚(おしょう)像、第2世の恵仁(えにん)和尚像は国の重要文化財、輪蔵(りんぞう)および経蔵は市指定文化財。

[菅沼 晃]


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改訂新版 世界大百科事典 「安楽寺」の意味・わかりやすい解説

安楽寺 (あんらくじ)

長野県上田市にある曹洞宗の寺。山号は崇福山。俗に別所観音。鎌倉末期,入宋僧の樵谷惟仙(しようこくいせん)が北条氏の援助をえて,古刹を復興し禅寺として建立。2世は来朝僧の幼牛恵仁。境内の禅宗様式の八角三重塔(国宝)で有名である。現存古塔の中でも珍しい形で,中国の八角仏塔の様式を取り入れたものとされる。ほかに1329年(元徳1)作の開山惟仙と2世恵仁の写実性すぐれた頂相(ちんぞう)彫刻(重要文化財)を伝えている。
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百科事典マイペディア 「安楽寺」の意味・わかりやすい解説

安楽寺【あんらくじ】

長野県上田市別所にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦如来。969年平維茂(たいらのこれもち)の創立と伝えるが,鎌倉時代中期に入宋僧樵谷惟仙(しょうこくいせん)を開山として禅宗寺院となった。国宝の八角三重塔は純粋な唐様(からよう)建築で,現存する唯一の唐様の塔として貴重。惟仙像は重要文化財。
→関連項目別所[温泉]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安楽寺」の意味・わかりやすい解説

安楽寺
あんらくじ

長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺。鎌倉時代中期に樵谷惟遷 (ゆいせん) が創立。南北朝時代建立の裳階 (もこし) つきの八角三重塔は,現存唯一の八角塔として貴重な遺構で国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「安楽寺」の解説

安楽寺〔徳島県〕

徳島県板野郡上板町にある寺院。高野山真言宗。山号は温泉山、本尊は薬師如来。弘仁年間に空海が開山したと伝わる。山号のとおり境内に温泉が湧く。四国八十八ヶ所霊場第6番札所。

安楽寺〔埼玉県〕

埼玉県比企郡吉見町、吉見丘陵にある寺院。真言宗智山派。山号は岩殿山、院号は光明院。本尊は聖観世音菩薩。吉見観音とも呼ばれる。

安楽寺〔長野県〕

長野県上田市にある寺院。曹洞宗。山号は崇福山、院号は護国院。本尊は釈迦如来。八角三重塔は国宝に指定。「別所観音」ともいう。

安楽寺〔和歌山県〕

和歌山県有田郡有田川町にある高野山真言宗の寺院。室町時代前期に建てられたとされる多宝小塔は国の重要文化財に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「安楽寺」の解説

安楽寺(第6番)

(徳島県板野郡上板町)
四国八十八箇所」指定の観光名所。

安楽寺(第11番)

(埼玉県比企郡吉見町)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

安楽寺

(長野県上田市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の安楽寺の言及

【吉見[町]】より

…丘陵地では住宅地開発も行われている。吉見丘陵には吉見百穴(史)や戦国時代の松山城跡,吉見観音の名で知られる坂東三十三所11番札所の安楽寺がある。西部の丘陵は県立比企丘陵自然公園に属する。…

【上中[町]】より

…農業を基幹産業とし,米作に加えて養鶏,酪農が行われ,林業にも依存する。無悪(さかなし)の安楽寺にある聖観音立像,脇袋の法順寺にある十一面観音立像は重要文化財。JR小浜線が通じる。…

【上板[町]】より

…また米を中心に,施設園芸,畜産,果樹などの複合経営を行う農家が多く,県農業の中核地域となっており,県畜産試験場,県果樹試験場分場などがある。四国八十八ヵ所6番札所安楽寺があり,松島の千本桜は花見客でにぎわう。【赤池 享一】。…

【九州探題】より

…ただこれら九州探題は,いずれも外来系権力のため,管内において料所などは少で,経済的基盤が脆弱であった。それを補うべく,例えば一色範氏は盛んに闕所地処分を行ったが,本主勢力の存在によって遵行困難であり,今川了俊は寺社領に広く半済(はんぜい)を施行して給人に預け置き,とくに大宰府安楽寺天満宮を強固に掌握した。
[今川了俊の施策]
 動乱期の九州探題としては一色範氏,足利直冬,今川了俊の3者が代表といえるが,彼らの発給文書の様式はおのおの特徴をもち類型化できる。…

【太宰府天満宮】より

…これが天満宮の起源と伝えられている。その後ほどなく,御墓寺すなわち安楽寺も創建され,以後同寺は,明治初年の神仏分離令発布に至るまで天満宮と同体であった。同寺初代別当は道真の孫平忠であり,その後別当は代々菅原氏の子孫から選ばれた。…

【筑後国】より

…当国の御家人としては草野氏,大城(おおき)氏,上妻(かみづま)氏,荒木氏,横溝氏,安芸氏(三池氏),酒見氏,西牟田氏などがいた。荘園としては青木荘,岩田荘,田島荘,飯得(いいえ)荘,水田荘,長田(ながた)荘,草野荘,吉田荘,船越荘などの安楽寺領荘園が多く,小家(おえ)荘,小河荘などの宇佐宮領,大石荘,山北荘などの観世音寺領,隈上(くまがみ)荘,上妻荘,原田荘などの弥勒寺領といった地方寺社領荘園も多く存在した。このほか,三潴(みづま)荘(宝荘厳院領),三池荘(近衛家領),三原荘(石清水八幡宮領),竹野荘(西大寺領),山門荘(九条家領),高良荘(長講堂領)などの中央権門領もあった。…

※「安楽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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