朝日日本歴史人物事典 「坊門清忠」の解説
坊門清忠
生年:生年不詳
鎌倉末期・南北朝初期,後醍醐天皇に仕えた公卿。父は左中将俊輔。正中1(1324)年右中弁に任ぜられるまでは不明。嘉暦1(1326)年右大弁,翌年正四位上さらに従三位に叙せられ,同3年には参議となり,右京大夫も兼ねた。翌元徳1(1329)年正三位に叙せられた日に参議,右大弁を辞し,同2年11月還任したが翌元弘1(1331)年1月にはまた辞任している。同3年鎌倉幕府滅亡,後醍醐天皇の新政が始まると,清忠も参議,右大弁に還任し,建武1(1334)年には信濃権守を兼ね,従二位に昇った。翌年,足利尊氏と新田義貞の抗争が始まると義貞の言い分を是とし,建武3/延元1(1336)年5月九州から東上してくる尊氏を迎え討つに当たり,天皇の比叡山臨幸を提案した楠木正成に反対した。翌年1月北朝において左大弁になったが,まもなく官を辞して吉野の後醍醐天皇のもとに行き,没したのも吉野であった。
(飯倉晴武)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報