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南朝 なんちょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

南朝
なんちょう

北朝時代に,大和国吉野を中心に存立した朝廷。京都にあった北朝に対する。吉野朝ともいう。大覚寺統の後醍醐,後村上,長慶,後亀山の4代の天皇の王朝。所在地は大和の金峯山寺,賀名生 (あのう) ,河内の天野金剛寺,観心寺などを転々とした。足利尊氏延元1=建武3 (1336) 年持明院統の光厳上皇を奉じて入京,光明天皇を立て,両朝の並立が始った。以後,後村上天皇長慶天皇後亀山天皇にいたるまで,足利氏の推戴する持明院統に対立し,その間足利氏側の内紛および南朝側についた諸武将の奮戦によって勢力を維持したが,河内の楠木正儀が幕府にくだり,弘和3=永徳3 (83) 年懐良親王が没すると,南朝の勢力はまったく衰えた。元中9=明徳3 (92) 年 10月足利義満との間に和議が成り,閏 10月5日神器は北朝後小松天皇に渡され,南北朝は合一した。明治になって,南北朝の正閏 (せいじゅん) が問題となり,1911年南朝が正統と勅裁された。

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デジタル大辞泉の解説

なん‐ちょう〔‐テウ〕【南朝】

中国の南北朝時代江南に拠って建国した漢民族の王朝。420年建国のに始まり、の四王朝が、589年の統一まで続いた。三国東晋を加えて六朝(りくちょう)ともいう。
日本で、延元元=建武3年(1336)に後醍醐天皇が大和(やまと)の吉野に移ってから、後村上長慶後亀山天皇と続いた大覚寺統の朝廷。吉野朝。→南北朝時代

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百科事典マイペディアの解説

南朝【なんちょう】

吉野朝とも。南北朝時代後醍醐天皇およびその皇位を継承した後村上・長慶(ちょうけい)・後亀山4代にわたる大覚寺統の朝廷。一時京都を回復したこともあるが,ほとんど大和(やまと)国吉野付近の山間に皇居を定めて終始京都の北朝と対立。
→関連項目菊池氏楠木正儀光明天皇大日本史長慶天皇中村北条時行陸奥将軍府吉野拾遺吉野朝両統迭立

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世界大百科事典 第2版の解説

なんちょう【南朝】

南北朝時代(1336‐92),大和国吉野を中心に後醍醐,後村上,長慶,後亀山の4代にわたり存立した大覚寺統の朝廷。京都にあった持明院統の朝廷を北朝とよぶのに対し,こちらを南朝とよび,また吉野朝ともいう。所在地は大和の金峯山寺,賀名生(あのう),河内の天野山金剛寺,観心寺などを転々とした。鎌倉時代後半から天皇家は持明院統,大覚寺統の二つに分裂し,皇位継承などが争われていたが,1336年(延元1∥建武3)大覚寺統の後醍醐天皇と足利尊氏とが決裂して建武政府が崩壊した際,尊氏は持明院統の光厳上皇を奉じて入京,光明天皇を擁立し,一方,後醍醐天皇は京都を脱出して吉野に逃れ,ここに二つの朝廷が並立することになった。

なんちょう【南朝 Nán chāo】

中国,東晋王朝を継いで江南に興亡した4王朝,すなわち(420‐479),(479‐502),(502‐557),(557‐589)の総称。北朝に対する呼名。約170年の期間に4王朝が興亡を繰り返し,しかも宋は8人,斉は7人,梁は4人,陳は5人,あわせて24人の天子を数えることは,政情不安の時代であったことを物語る。そのなかで宋の文帝の約30年,梁の武帝の約50年に及ぶ長期の治世はまことに異例のことであった。

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大辞林 第三版の解説

なんちょう【南朝】

日本で南北朝時代(1336~1392)に、奈良の吉野を中心に存立した大覚寺統の朝廷。後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇と四代続いた。吉野朝。
中国で、南北朝時代に江南を支配した漢民族四王朝の総称。宋(420~479)・斉(479~502)・梁(502~557)・陳(557~589)をいう。
▽↔ 北朝

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

南朝
なんちょう

南北朝時代、京にあった持明院統(じみょういんとう)の北朝に対し、大和国吉野などに拠って正統を主張した大覚寺統の朝廷。吉野朝ともいう。後醍醐・後村上・長慶(ちょうけい)・後亀山の4代を数える。1336年(建武3・延元1)に足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の離反によって建武政権が崩壊した際、後醍醐天皇は「三種の神器」を携えて京を脱出して南朝を建てた。南朝ははじめ畿内南部や九州・関東・奥州などの武士の一部の支持を得て北朝・足利氏に対抗し、前後数度にわたり京を奪還したが、次第に劣勢となり、1392年(明徳3・元中9)に後亀山天皇から北朝後小松天皇へ神器が渡されて、南朝は事実上北朝に吸収された。この際、両統から交互に皇位継承者を出すなどの条件が示されたが遵守されず、これを不満とした旧南朝支持勢力による小規模な蜂起がしばらく散発した(これを後南朝とよぶ)。のちに明治天皇の勅裁によって正統と認定され、現在は南朝の諸天皇が歴代数に算入されている。[新田一郎]
『田中義成著『南北朝時代史』(1979・講談社学術文庫)』

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世界大百科事典内の南朝の言及

【熊沢天皇】より

…第2次大戦後,南朝の正統な皇統の継承者と名乗り出た熊沢寛道(1889‐1966)の通称。1946年(昭和21)1月18日,GHQは名古屋市千種区で雑貨商を営む熊沢寛道が後亀山天皇第19代正統者と名乗り出たことを発表した。…

【朝用分】より

…南北朝内乱期に南朝の課した臨時の公事。みずからの財政や軍勢の兵粮などのために南朝方寺社本所領を対象にしたもの。…

【吉野】より

…ちなみに桜は蔵王権現の神木とされる。 吉野の地があらためて歴史の脚光をあびるのは,元弘の乱(1333)にさいし,護良親王が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し,ついで後醍醐天皇の行宮(あんぐう)がおかれ南朝(吉野朝)の拠地となったことによってである。天皇は金峯山寺塔頭実城寺を行宮として金輪王(きんりんのう)寺と改めたが,ここで死に,塔尾陵が営まれた。…

※「南朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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