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村田清風 むらた せいふう

美術人名辞典の解説

村田清風

江戸後期の藩政家。長門萩藩士。字は子則、号を松斎・東陽・梅堂等。財政経済の才能に富み、藩の天保改革を遂行した。改革派として周布政之助高杉晋作らに大きな影響を与えた。安政2年(1855)歿、73才。

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百科事典マイペディアの解説

村田清風【むらたせいふう】

長州萩(はぎ)藩士。〈むらたきよかぜ〉とも。通称織部(おりべ)。藩校明倫館で学んだ。右筆となり,その能力を高く評価される。1838年仕組掛に任じられ,以後昇進しながら天保藩政改革を推進,殖産興業・兵制改革等に手腕を発揮。
→関連項目天保改革藩政改革

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

村田清風 むらた-せいふう

1783-1855 江戸時代後期の武士。
天明3年4月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。当役用談役となり,天保(てんぽう)の藩政改革を主導。藩債整理,越荷方(こしにかた)の拡充,専売制強化などのほか,兵制改革につとめる。弘化(こうか)元年内外の反発をうけて退任した。安政2年5月26日死去。73歳。初名は順之,将之。字(あざな)は穆夫。通称は四郎左衛門,織部。号は松斎など。名は「きよかぜ」ともよむ。

村田清風 むらた-きよかぜ

むらた-せいふう

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朝日日本歴史人物事典の解説

村田清風

没年:安政2.5.26(1855.7.9)
生年:天明3.4.26(1783.5.26)
江戸後期の長州(萩)藩士,藩政改革の指導者。通称は亀之助,新左衛門,四郎左衛門,織部。名は将之,清風。字は穆夫。号は松斎,嘯雨,東陽,梅堂,月波楼主,静翁,炎々翁など。長門国(山口県)大津郡三隅村の八組士で,禄高50石,郡代官,村田四郎左衛門の長子に生まれる。15歳で藩校明倫館に入学し,文化5(1808)年,藩主に近侍する手廻組に入り,小姓役となる。同7年,藩政の要となる右筆役・密用方に任じ,兵学を学び,異船防御方にも参画し,大小砲を中心とする軍制改革,神器陣編成を指導した。文政2(1819)年,家督を継ぐ。御用所右筆から当職(藩地家老)手元役と昇進して,財政,民政に当たる。当役(藩主側近の家老)手元役,撫育方頭人などの要職を歴任。全藩を揺るがした天保2(1831)年の大一揆の直後,実務役人の最高位の当役用談役となり,財政改革を企画したが容れられず,辞任した。 天保9(1838)年,新藩主毛利敬親に地江戸両仕組掛に任ぜられ,財政改革に着手し,同11年,再び江戸当役用談役となり,長州藩における天保改革を開始した。天保改革は藩債の整理,藩士禄米の削減の緩和,下関の諸国貨物へ貸し付ける越荷方の拡大,商業統制の推進,士卒の公私借財の整理などであった。軍制改革にも努め,同14年,反対をおして羽賀台の大操練を行った。しかし藩士の借財整理を商人の負担を強化して行う公内借三十七カ年賦皆済仕法が反発をよび,さらに幕府の諸藩専売の取り締まりによって,国産方の役所を撤廃し,改革は頓挫した。翌弘化1(1844)年,職を辞し,三隅村の旧宅に帰り,文武を錬成する尊聖堂を作って,対外防備策を論じた。実務に通暁した能吏としての名声は高く,安政2(1855)年,後継者,周布政之助に請われて再起し,江戸方御内用参与に就いたが,直後,中風再発により死去した。<参考文献>山口県教育会編『村田清風全集』全2巻

(井上勝生)

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防府市歴史用語集の解説

村田清風

三隅町出身。5代の藩主につかえ、財政関係の責任者として萩藩の改革を進めました。

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世界大百科事典 第2版の解説

むらたせいふう【村田清風】

1783‐1855(天明3‐安政2)
幕末の長州藩士。正しくは〈きよかぜ〉。大津郡三隅村の郡代官の家に生まれる。初名は順之で,四郎左衛門,晩年に織部と称する。藩校明倫館に学び,右筆役に就いて異船防御のため,後に神器陣として知られる新軍制を研究し,能吏として認められた。1838年(天保9)仕組掛に任じ,その後,手元役,用談役と昇進して天保藩政改革を推進した。商業高利貸資本の抑圧や藩政の復古を政策として掲げ,莫大な藩債を整理し,藩営専売を再編成し,越荷方(倉庫・金融業の役所)の経営を行い,また藩内綱紀の粛清のために評定所を強化した。

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大辞林 第三版の解説

むらたせいふう【村田清風】

〔名は「きよかぜ」とも〕 (1783~1855) 江戸後期の長州藩士。天保の藩政改革にあたり、財政・兵制改良に尽力。長州藩改革派の基盤を固め、維新への原動力を築いた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

村田清風
むらたせいふう

[生]天明3(1783).4.26. 長州
[没]安政2(1855).5.26. 長州
江戸時代後期の長州藩政の改革推進者。通称,亀之助,新左衛門。郡代官の子。藩校明倫館に学んだ。文化5 (1808) 年藩主の近侍,郡奉行を経て文政 13 (30) 年撫育方 (ぶいくかた) ,次いで当役相談方となり,窮迫した藩の財政再建に尽力。借金制の緩和,越荷方 (こしにかた) を設置,兵制,教学の改革をはかり,藩力の向上にめざましい指導力を発揮した。弘化2 (45) 年引退して私塾道場尊聖堂を開き,安政2 (55) 年藩庁相談役に再任されたがまもなく病死。彼の影響を受けて周布政之助らの後継者が輩出した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

村田清風
むらたせいふう
(1783―1855)

幕末期長州藩の藩政改革の推進者。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、禄高(ろくだか)50石の家に生まれ、父は代官であった。初名順之(よりゆき)、のち清風。通称は四郎左衛門。少年時、藩校明倫館(めいりんかん)で学び、のち江戸へ出て塙保己一(はなわほきいち)に学ぶが、このころより海防について深い関心を抱く。1819年(文政2)家督相続後藩府に出仕し、各職座を歴任して頭角を現した。とくに13代藩主毛利敬親(もうりたかちか)に重用され、1838年(天保9)表番頭(おもてばんがしら)に抜擢(ばってき)されてからは、天保(てんぽう)の改革の立案・推進者となった。天保改革は(1)江戸藩校有備館(ゆうびかん)の設立、(2)西洋式大操練の実施、(3)淫祠(いんし)の解除、(4)農村の実態調査、(5)藩校明倫館の改築と整備、(6)藩直営の会所の拡充、(7)藩専売制の強化などであり、この政策は清風の立案したものであった。しかし、1844年(弘化1)反対派の坪井九右衛門(くえもん)に政務の実権を奪われ、郷里大津郡三隅(みすみ)村(山口県長門(ながと)市三隅)に引きこもる。同所で近隣の子弟の教育にあたり、一時要職に復帰するが、安政(あんせい)2年死去。[広田暢久]
『山口県教育会編『村田清風全集』全2巻(1985・マツノ書店) ▽真鍋繁樹著『義なくば立たず――幕末の行財政改革者・村田清風』(1996・講談社)』

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世界大百科事典内の村田清風の言及

【三隅[町]】より

…木工,食料品などの工場があり,かまぼこを特産。仙崎湾最奥の沢江に,長州藩の天保改革を推進した村田清風の旧宅と墓(史)がある。三隅川沿いの湯免温泉はラジウム含有量の多い単純放射能泉で,近くにプールや公園がある。…

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