幕末期長州藩の攘夷(じょうい)論推進者。大組(おおぐみ)(馬廻(うままわり)組、八組(はつくみ))士、禄高(ろくだか)六十八石の家に生まれ、名は兼翼(かねすけ)、別名麻田公輔(あさだこうすけ)という。幼時父を失い、母の手で育てられる。藩校明倫(めいりん)館で学び、やがて藩府に出仕し、累進して江戸方右筆(ゆうひつ)から用所役となる。1858年(安政5)朝廷から長州藩に対する密勅の降下をみると、藩府は政之助を学習院御用掛に任命して京都に派遣する。当時の京都は尊王攘夷論が高まり、政之助は諸国の志士と親交を結び活動する。しかし、政之助の考えは尊攘論ではあるが、挙藩一致の尊攘論であり、久坂玄瑞(くさかげんずい)らの急進的な意見との間に差があった。62年(文久2)朝廷から攘夷の命が出ると帰国し、藩府政務員として翌年イギリス商船、フランス軍艦を砲撃して下関(しものせき)戦争を始める。しかしこの後朝議が一変し、政之助は藩府内で孤立する。64年(元治1)長州藩は京都禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で敗れ、久坂らは戦死する。幕府は征長令を発するが、政之助はこれらの責任をとって自殺した。42歳であった。
[広田暢久]
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幕末期の長州藩の政治家。同藩八組,周布家の五男。名は兼翼,政之助は通称,のち麻田公輔と改名した。村田清風の路線を継承して安政期の藩政改革を指導した後,長井雅楽(うた)の親幕開国路線を批判して1862年(文久2)藩政の実権を握り,長州藩の尊王攘夷運動の重鎮となる。63年8月18日の政変,翌年の禁門の変の敗戦をへて,征長令発令の後,責を負い自刃した。
執筆者:井上 勝生
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