城長茂(読み)じょうながもち

改訂新版 世界大百科事典 「城長茂」の意味・わかりやすい解説

城長茂 (じょうながもち)
生没年:?-1201(建仁1)

鎌倉初期の越後国蒲原郡白河荘によった在地武士。通称四郎,はじめ資職(すけもと),資茂。父は資国。兄城資永が1181年(養和1)春病死した後をうけて家督を継ぎ,同年8月越後守に任じられて,平家方として源義仲に対した。信濃国横田河原の戦で義仲に敗れ,平家滅亡後は源頼朝の捕囚となって梶原景時に預けられた。奥州征伐に参陣して功あり,本領を復したとみられる。頼朝の死後上京して1201年春,将軍家追討の宣旨を後白河院に強要して果たさず,吉野に逃れたが幕府軍に討たれた。長茂に呼応して越後国奥山荘挙兵した甥の資盛らも敗死して越後城氏は滅亡した。
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朝日日本歴史人物事典 「城長茂」の解説

城長茂

没年建仁1.2(1201)
生年:生年不詳
平安後期・鎌倉初期の武将。父は城九郎資国。城資永の弟。当初は資職と称す。「白河御館」と呼ばれていたことから,越後国白河荘(新潟県北蒲原郡東南部)に居館を置いていたことがわかる。兄・資永の死去後の治承5(1181)年6月,1万余の軍勢を率いて信濃国に進軍し,横田河原(長野市)で木曾義仲と戦うが敗北。同年8月,越後守に任命されるが,元暦1(1184)年春以降,越後に進攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ,囚人として鎌倉に送られた。文治4(1188)年9月,熊野の僧・定任のとりなしで頼朝と対面するが御家人となることを拒否。翌年7月,頼朝から奥州征伐に参陣することを許され,その後,御家人となったようである。頼朝没後の正治3(1201)年1月,鎌倉幕府打倒を企て,京都で挙兵するが失敗し,同年2月に討たれる。長茂の京都での挙兵に呼応して,甥の資盛や妹・坂額が越後国で蜂起するが幕府軍に討たれて,族滅した。

(田村裕)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「城長茂」の解説

城長茂 じょう-ながもち

?-1201 平安後期-鎌倉時代の武将。
城資永(すけなが)の弟。越後(えちご)(新潟県)の豪族で,源平の争乱では平家方として源義仲とたたかって敗れ,平家滅亡後は源頼朝にしたがう。頼朝の死後京都にいき,後鳥羽(ごとば)上皇に将軍源頼家追討の宣旨(せんじ)を要求したがえられず,建仁(けんにん)元年2月22日大和(奈良県)吉野で幕府軍に討たれた。初名は助職(すけもと)。通称は四郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「城長茂」の意味・わかりやすい解説

城長茂
じょうながもち

[生]?
[没]建仁1(1201).2.22. 吉野
鎌倉時代初期の越後の武将。後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を請うたが聞き入れられず,幕府に誅伐された。

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