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城長茂 じょうながもち

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

城長茂
じょうながもち

[生]?
[没]建仁1(1201).2.22. 吉野
鎌倉時代初期の越後の武将。後鳥羽上皇に源頼家追討の宣旨を請うたが聞き入れられず,幕府に誅伐された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

城長茂 じょう-ながもち

?-1201 平安後期-鎌倉時代の武将。
城資永(すけなが)の弟。越後(えちご)(新潟県)の豪族で,源平の争乱では平家方として源義仲とたたかって敗れ,平家滅亡後は源頼朝にしたがう。頼朝の死後京都にいき,後鳥羽(ごとば)上皇に将軍源頼家追討の宣旨(せんじ)を要求したがえられず,建仁(けんにん)元年2月22日大和(奈良県)吉野で幕府軍に討たれた。初名は助職(すけもと)。通称は四郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

城長茂

没年:建仁1.2(1201)
生年:生年不詳
平安後期・鎌倉初期の武将。父は城九郎資国。城資永の弟。当初は資職と称す。「白河御館」と呼ばれていたことから,越後国白河荘(新潟県北蒲原郡東南部)に居館を置いていたことがわかる。兄・資永の死去後の治承5(1181)年6月,1万余の軍勢を率いて信濃国に進軍し,横田河原(長野市)で木曾義仲と戦うが敗北。同年8月,越後守に任命されるが,元暦1(1184)年春以降,越後に進攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ,囚人として鎌倉に送られた。文治4(1188)年9月,熊野の僧・定任のとりなしで頼朝と対面するが御家人となることを拒否。翌年7月,頼朝から奥州征伐に参陣することを許され,その後,御家人となったようである。頼朝没後の正治3(1201)年1月,鎌倉幕府の打倒を企て,京都で挙兵するが失敗し,同年2月に討たれる。長茂の京都での挙兵に呼応して,甥の資盛や妹・坂額が越後国で蜂起するが幕府軍に討たれて,族滅した。

(田村裕)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

じょうながもち【城長茂】

?‐1201(建仁1)
鎌倉初期の越後国蒲原郡白河荘によった在地武士。通称四郎,はじめ資職(すけもと),資茂。父は資国。兄城資永が1181年(養和1)春病死した後をうけて家督を継ぎ,同年8月越後守に任じられて,平家方として源義仲に対した。信濃国横田河原の戦で義仲に敗れ,平家滅亡後は源頼朝の捕囚となって梶原景時に預けられた。奥州征伐に参陣して功あり,本領を復したとみられる。頼朝の死後上京して1201年春,将軍家追討の宣旨を後白河院に強要して果たさず,吉野に逃れたが幕府軍に討たれた。

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