改訂新版 世界大百科事典 「奥山荘」の意味・わかりやすい解説
奥山荘 (おくやまのしょう)
越後国蒲原郡(新潟県胎内市,新発田市の北端部,岩船郡関川村の一部)の荘園。摂関家領。成立の時期は不明であるが,越後城(じよう)氏のなかに〈奥山〉を称する者があり,城氏を開発領主として12世紀には成立したとみられる。源平争乱で城氏が没落したあと,その地頭職は木曾義仲を追討した恩賞として和田義盛の弟義茂に与えられた。和田氏,三浦氏が和田合戦,宝治合戦で没落した後は,奥山荘だけが義茂の子孫三浦和田氏の〈一所懸命〉の地となった。地頭支配の強化は荘園領主支配と対立するようになり,1240年(仁治1)には領家と地頭時茂との間に和与が成立し,年貢米100石,御服綿10両(代銭納の場合は60貫文余)を地頭が納めることで地頭請所となった。77年(建治3)地頭時茂は孫3人に奥山荘を北条(きたじよう),中条(なかじよう),南条に3分して与え,それぞれが惣領を立てることになった。以後奥山荘の三浦和田一族は典型的な惣領制を展開しながら荘内の支配にあたったが,しばしば一族間に係争を生じ,訴訟をくりかえした。南北朝末期には惣領の単独相続制に移り,庶子の被官化を進めた。北条は黒川氏,中条は中条氏が惣領として独立しており,南条は関沢氏が中心となったとみられるが,このほかにも高野氏,羽黒氏などの諸家が生まれた。室町~戦国期にはとくに中条,黒川両氏は有力国人領主として成長し,しばしば守護上杉氏と対抗する勢力となった。この間,三浦和田氏に伝来した文書は現存するもの約550点,なかでも《波月条絵図》(重文,胎内市所有)は,鎌倉末期東国荘園の実態を伝えるものとして著名であり,荘内には城館址,境界牓示(ぼうじ),石造遺物(板碑)など遺跡,遺物がよく伝存している。1598年(慶長3)豊臣秀吉によって上杉氏の国替が命ぜられ,奥山荘の領主たちもこの地を去って,名実ともに奥山荘の歴史をとじた。
執筆者:阿部 洋輔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報