堀金村(読み)ほりかねむら

日本歴史地名大系 「堀金村」の解説

堀金村
ほりかねむら

[現在地名]狭山市堀兼ほりかね狭山台さやまだい

北入曾きたいりそ村・南入曾村の東にあり、南は下富しもとめ(現所沢市)。中央を新河岸道、南を同道の一本古市場ふるいちば道が通る。中央を不老としとらず川が北東へ流れる。村名は「ほりがね」ともよび、堀兼とも記される。入間いるま郡河越領に属した(風土記稿)武蔵野新田の一で、慶安二年(一六四九)川越藩により開発され、承応年間(一六五二―五五)に立村(寛文一二年「今福村開発人引移議定書」志村家文書)。万治三年(一六六〇)の堀金村年貢割付状(宮沢家文書)には高なしとある。最初の検地は寛文元年(一六六一)で、反別一四六町五反余(皆畑)、名請人数六二名(「武蔵野開検地水帳堀金分」同文書)


堀金村
ほりがねむら

[現在地名]川西町堀金

鬼面おもの川左岸に位置し、北はのぞき村、東は尾長島おながしま村、南は長橋ながはし(現米沢市)。永正八年(一五一一)七月五日の牛越又七宛の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「堀金の郷之内右馬助在家一宇」とある。天文三年(一五三四)四月一〇日の伊達稙宗安堵状案(同文書)によれば、牛越治部少輔よりの買地である「堀金之郷内、上野在家一宇、年貢一貫五百文之所」、中田十郎よりの買地である「堀金之郷内、柴田在家之内、年貢二貫五百文之所、并外屋敷」が大津源三に安堵されている。同七年の段銭古帳では「下長井白川より南」に「四十貫九百文 ほり金」がある。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、「ほりかねのうち」として「いなは在け」「田中在け」「正本在け」「とうゑん在け」「さつこ田在け」「さかへ在け」「しミくち在け」「たいむ在け」「河田在け」「神社」と堀金郷の総成敗権が後藤彦十郎に、国分太郎左衛門分の「たか庭在け」が峰崎左馬助に、「やしき、同てさく」「はきのめ在け」が新田監物に、「さやのかミ在家」が中野常陸介に、「うき嶋在け」「といのくち在け」「ミやの下在け」「山の在け」「すなこ田在け」が大橋左馬允に、「とうけん在け」が佐藤備中に、「たか田在家」「ゆひしん在家」が安積金七郎に、「あふな在家」が新田弥八郎に、「うちかた在家のこさす、梅つ備せん分、かけりいし中山の内、たての在家、うちかた在家のこさす」と「はやと在家」「はくさんてん」「かち在家」が大津新発意・同源三娘に、「とほく田在家」が後藤権内に、「川はた在家一間」「しな在家一間」が鹿俣助七郎に下賜もしくは安堵されている。


堀金村
ほりがねむら

面積:六五・〇四平方キロ

からす扇状地上に立地。豊科とよしな町の西隣。角蔵こくぞう山・常念じようねん岳・ちようヶ岳の東麓に展開する純農村。

烏川扇状地の扇頭・扇端は上・下両堀金堰によって早くから水田となり、扇状地の中央部は畑地帯で、江戸時代には林や原野となっており、扇町おうぎまち倉田くらた等の集落が元禄(一六八八―一七〇四)以後開発されている。文化一三年(一八一六)じつせぎが開通して下堀金の水田化が進み、更に昭和二〇年(一九四五)以降上堀金の水田化が進む。烏川谷の栃平とんでいらには江戸時代に数戸の集落が存在し、小野沢おのざわには木地屋も居住していた。


堀金村
ほりがねむら

[現在地名]長岡市堀金町・堀金一―三丁目・永田ながた一―二丁目・同四丁目・ゆたか一―二丁目

長岡町北東郊外の平坦地にある。北は栃尾往来に沿う永田村、南は川崎かわさき村に通じる。口碑によると、当地には古く山吉氏の居城があったという。山吉家は源義家が黒鳥兵衛討伐のため越後下向の時、当国にとどめ置いた重臣浦部兵庫兼隆の後裔という。浦部氏は、初め蒲蒲かんばらたけはな(現北蒲原郡豊浦町)に住し、のちに当地に移り、後年故あって姓を山吉に改め、貞治年中(一三六二―六八)から上杉氏に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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