境原村(読み)さかいばるむら

日本歴史地名大系 「境原村」の解説

境原村
さかいばるむら

[現在地名]千代田町大字境原字境原・はんまち

長崎街道沿いに東西に開け、北はあね村に接する。

永禄一二年(一五六九)・元亀元年(一五七〇)に大友宗麟勢が肥前へ侵入し佐賀城の竜造寺氏を攻撃した際、大友氏の老臣戸次鑑連がその陣を設けた所として「九州治乱記」に地名が記されている。正保絵図に村名がみえる。

村の西口で長崎街道から分れて余江あまりえを経由して蓮池はすのいけ(現佐賀市)から蒲田津かまたつ(同前)に至る蓮池往還がある。


境原村
さかいはらむら

[現在地名]橋本市境原

細川ほそかわ村の東北、東谷ひがしたに川の上流にあり、「界原」(隅田八幡神社文書)とも書く。中世隅田すだ庄に属し、隅田一族の葛原氏が居住した。建長六年(一二五四)正月一日付の隅田八幡宮朝拝頭人差定(隅田家文書)に「境原」、元応二年(一三二〇)一〇月二五日付隅田信教譲状写(同文書)に「すたの北の境原」とみえる。応永二二年(一四一五)二月二九日付葛原明観譲状(同文書)によれば、明観が三郎左衛門尉に譲った境原の田畑の地名に「うゑたいら」「さいのかミのまゑ」「西のかいと」「けんないかいと」「へい五郎かいと」などがあった。


境原村
さかいばらむら

[現在地名]和歌山市境原

名草なくさ郡に属し、西は山を挟んで薬勝寺やくしようじ村。中世以来の熊野街道(小栗街道)沿いに小名つじがある。応永一〇年(一四〇三)二月二八日の熊谷直会譲状(熊谷家文書)に「那口郡内巨勢多・堺原」とみえ、三上みかみ那口なくち郷に含まれる地であったと思われる。慶長検地高目録には「坂井原村」と記され、高五九一石余、小物成二斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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