黄檗宗(読み)オウバクシュウ

デジタル大辞泉 「黄檗宗」の意味・読み・例文・類語

おうばく‐しゅう〔ワウバク‐〕【黄×檗宗】

日本の三禅宗の一。承応3年(1654)来日した明僧みんそう隠元が開祖で、京都府宇治市の黄檗万福寺を本山とし、明治9年(1876)臨済宗から独立して一宗となる。教禅一如を提唱、念仏禅に特色がある。→禅宗

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精選版 日本国語大辞典 「黄檗宗」の意味・読み・例文・類語

おうばく‐しゅうワウバク‥【黄檗宗】

  1. 〘 名詞 〙 仏語臨済禅の一派。明の黄檗山万福寺の僧隠元(隆琦禅師)が承応三年(一六五四)に来日し、寛文元年(一六六一)に山城国宇治に寺の基を興し、黄檗山万福寺を称し、同五年にはほぼ完成した。後、この寺を大本山とし、明治九年(一八七六)宗名を立てて黄檗宗とした。教禅一如を提唱し、念仏禅の特色がある。隠元派。黄檗派。黄檗。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄檗宗」の意味・わかりやすい解説

黄檗宗
おうばくしゅう

臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つ。中国明(みん)代の僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする。元和(げんな)・寛永(かんえい)(1615~44)のころ、長崎には明末の動乱を逃れて渡来した多くの中国人、華僑(かきょう)が在住していたが、とくに福州(福建省)出身者たちによって興福寺(こうふくじ)、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明(みん)僧が招かれて住していた。臨済宗楊岐派(ようぎは)に属し、費隠通容(ひいんつうよう)の弟子であった隠元は、福州の黄檗山万福寺に住していたが、興福寺逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘(しょうへい)を受け、大眉性善(だいびしょうぜん)、独湛性瑩(どくたんしょうけい)、独言性聞(どくげんしょうもん)、南源性派(なんげんしょうは)ら随行30名を連れて1654年(承応3)に長崎に来航し、興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務めた。ついで58年(万治1)江戸湯島麟祥院(りんしょういん)に寄寓(きぐう)し、4代将軍徳川家綱に謁して信頼を得、61年(寛文1)についに幕府の許可を得て山城(やましろ)国宇治に大禅苑(だいぜんえん)を建立、先住地の名をとって黄檗山万福寺と名づけた。

 隠元はここで明朝(みんちょう)風の伽藍(がらん)を構え、明朝風の法式勤行(ほうしきごんぎょう)を行い、特異な念仏禅を挙揚し、のちにその系統が黄檗宗とよばれた。この新来の禅に日本僧が相次いで参じたが、とくに儀礼の面で日本の禅界に多大の影響を与えた。さらに隠元の弟子木庵性瑫(もくあんしょうとう)(1611―84)や即非如一(そくひにょいち)(1616―71)も渡来して隠元の教化を助け、またこの系統に高泉性潡(こうせんしょうとん)(1613―95)、鉄眼道光(てつげんどうこう)(1630―82)、竜渓性潜(りゅうけいしょうせん)(1602―70)などがいて、その発展に大きな役割を果たし、黄檗宗は隆盛に赴いた。

 とくに木庵性瑫は黄檗宗第2世となり、のち江戸瑞聖寺(ずいしょうじ)を開山、関東に黄檗宗の基礎を据えた。また5世の高泉性潡は中興といわれる。その後万福寺は13世竺庵(じくあん)まで中国僧によって受け継がれたが、14世竜統(りゅうとう)以後は日本僧も住持するようになった。21世大成(たいせい)以後しだいに衰微し、33世良忠(りょうちゅう)が宗門を刷新し再興を図ったが、1874年(明治7)臨済宗に合併された。しかし、1876年にふたたび独立、1952年(昭和27)に宗教法人法による認証を受けた。今日、法系としては臨済宗の白隠慧鶴(はくいんえかく)の系統に変わったが、中国風の法式勤行(ごんぎょう)は現在も伝承されている。2000年(平成12)現在寺院463、信徒35万人を擁している。

 なお、隠元とともに渡来した文人工匠らによって、普茶(ふちゃ)料理(精進料理)や煎茶(せんちゃ)などの生活文化、また明朝風の建築様式、画像、彫像、詩文、書などの黄檗風といわれる文化が移入され、日本で独特の発達をみせた。

[石川力山]

『山本悦心著『黄檗東渡僧宝伝』(1926・愛知黄檗堂)』『西村貞著『黄檗画像志』(1934・大阪池永美術研究所)』『高橋良和著『黄檗山万福寺』(1976・探究社)』『竹貫元勝編・著『近世黄檗宗末寺帳集成』(1990・雄山閣出版)』『阿部理恵著『禅の寺――臨済宗・黄檗宗 十五本山と開山禅師』(1996・禅文化研究所)』『臨済会編『昭和・平成禅僧伝 臨済・黄檗篇』(2000・春秋社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「黄檗宗」の意味・わかりやすい解説

黄檗宗 (おうばくしゅう)

京都府宇治市に所在する黄檗山万福寺を本山とする禅宗の一派。宗祖は1654年(承応3)に来日した明僧の隠元隆琦で,万福寺は61年(寛文1)に開創され,ここに禅浄一致の宗風をもつ明朝禅が伝えられて大きく発展した。隠元の禅は東福寺開山円爾弁円や円覚寺開山無学祖元と同じ径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)の法系に属する臨済禅であって,中国では臨済宗の一派にすぎなかったが,日本では黄檗山の禅が念仏禅の禅風をかかげ,伽藍様式や読経,法要様式,法具法服その他すべて明風であり,日本臨済宗に異なる特色をもったことで,臨済宗と分離し一宗を形成した。1722年(享保7)の〈黄檗宗法度〉には〈黄檗派〉あるいは〈黄檗衆〉の名称が見え,〈近年宗門広まり候〉と,この期には教団が大きく拡大されていることが知られるが,45年(延享2)の末寺数は,51ヵ国に897ヵ寺を数えていて地方教線拡張のあともみとめられる。この宗勢の拡大は,とくに檗門の二甘露門と称される,万福寺2世で江戸に瑞聖寺を開創した木庵性瑫,豊前に福聚寺を開いた即非如一(にょいち)や,隠元の法孫で万福寺5世の高泉性潡(こうせんしようとん)の中興などによるところが大きいが,その他数多くの黄檗僧が世に出て活躍し,諸藩大名の支持を得た結果でもある。その黄檗宗の禅僧は法系的に大きく紫雲派,広寿派,竜興派,獅子林派,東林派,華蔵派,漢松派,万松派,直指派,海福派,仏国派の11派に分けられ,そのうち木庵の紫雲派は万寿下,長松下など12派に分派しているのをはじめ,獅子林派は7派,仏国派は3派,漢松派,広寿派はおのおの2派に分派していて,黄檗宗は32派によって構成されている。1874年教部省は禅宗を曹洞,臨済の2宗としたため臨済宗に合併したが,76年に分離独立し,78年初代管長に多々羅観輪が就任して宗内統轄を行った。1922年には3府30県に477ヵ寺の末寺を数え,その宗勢は現在も大きな変化がなく,宗教活動がさかんに行われている。
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百科事典マイペディア 「黄檗宗」の意味・わかりやすい解説

黄檗宗【おうばくしゅう】

日本の禅宗の一宗派。中国僧隠元(いんげん)が将軍徳川家綱に請い,故山にならって1661年宇治(うじ)に黄檗山万福(まんぷく)寺を創建したのに始まる。教義的には臨済(りんざい)宗の一派で,明(みん)代の念仏禅をまじえる。2代木庵(もくあん)は江戸白金(しろがね)に瑞聖寺(ずいしょうじ)を開いて教勢を拡大。13代竺庵(じくあん)に至るまで中国僧を管主とした。このため山水画,普茶料理などの普及に貢献。長崎の崇福(そうふく)寺などのように在日中国人の信仰が厚い。
→関連項目喜多元規三筆禅宗鉄眼唐音普茶料理渡辺秀石

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黄檗宗」の意味・わかりやすい解説

黄檗宗
おうばくしゅう

日本の禅宗の一派。中国僧隠元隆琦を開祖とする。宗名は中国の黄檗山萬福寺の山号からとったもの。隠元は承応3(1654)年,長崎の崇福寺住持,逸然性融らのたびたびの懇請によって独湛性瑩らとともに来日,将軍徳川家綱に謁見し,山城国宇治に黄檗山萬福寺の名を移して堂宇を建立した。その後,木庵性瑫が黄檗宗を広め,江戸にも瑞聖寺を建てて関東地方に禅風を伝えた。一時衰えたが,嘉永4(1851)年,良忠如隆が出て復興に努めた。1874年明治政府教部省の命令により臨済宗に合併したが,1876年再び独立して現在にいたる。宗風はほとんど臨済禅に一致するが,代の念仏禅を伝えているのが特徴。法式は明風を用いている。約 450の寺院をもつ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「黄檗宗」の解説

黄檗宗
おうばくしゅう

1654年(承応3)来日した明僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)の伝えた禅宗の一派。61年(寛文元)に隠元が山城国宇治(現,京都府宇治市)に開創した黄檗山万福寺を本山とする。中国では臨済宗の一派にすぎなかったが,日本では明の念仏禅の影響が濃く,伽藍様式・規則・風儀などすべてに明朝風で歴代住持も中国僧だったため,在来の日本臨済宗とは異質とみられた。隠元の前住地,中国福建省の黄檗山万福寺(古黄檗)にちなみ臨済宗黄檗派・万福寺派などと称された。公武の厚い庇護のもとに近世を通じて大いに教勢を伸ばし,法系は法嗣木庵性瑫(もくあんしょうとう)の紫雲派以下11派にわかれ賑わった。1874年(明治7)臨済宗に併合されたが,76年独立して黄檗宗と公称し現在に至る。

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旺文社日本史事典 三訂版 「黄檗宗」の解説

黄檗宗
おうばくしゅう

江戸初期に来日した明僧隠元 (いんげん) 隆琦によってもたらされた禅宗の一派
中国においては臨済の一派であるが,日本に伝えられたのは明朝風の念仏禅で浄土教的要素が強いため,鎌倉時代以来の臨済宗とは区別され独立の宗派となった。隠元は将軍徳川家綱の帰依をうけ,1661年山城国(京都府)宇治に万福寺を開き,寺制・建築・仏具・儀式などすべて中国風を用い,仏教界に新風を吹きこんだ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「黄檗宗」の解説

黄檗宗
おうばくしゅう

明代に黄檗清規 (しんき) が始めた臨済宗の一派
唐・宋風の臨済宗の日常行事を明風に改めたもの。日本には,1654年隠元が来朝して宇治に黄檗山万福寺を創建した。中国風読経など,今日におよんでいる。

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世界大百科事典(旧版)内の黄檗宗の言及

【隠元】より

…京都府宇治の黄檗(おうばく)山万福寺の開山で,日本黄檗宗の開祖。隠元は号で,諱(いみな)は隆琦(りゆうき)。…

【禅宗】より

…臨済禅の伝来は,そうした中国近代文明の持続的な日本への伝来とともにあり,これを集大成するのが,黄檗山の開創である。 黄檗宗は,中国の福州黄檗山万福寺の住持,隠元隆琦が,江戸幕府の帰依で宇治に万福寺を開いたのに始まる。隠元隆琦は,中国では臨済宗楊岐派に属し,日本でも臨済正宗を名のるが,鎌倉以来すでに日本に来ている臨済禅が,宋・元時代のそれを伝えて完全に日本化しているのに比して,近世中国の風俗習慣を伴う隠元の臨済禅は,日本仏教徒にあらためて中国仏教の現実を見せつけることとなる。…

【万福寺】より

…京都府宇治市にある黄檗(おうばく)宗の大本山。山号は黄檗山。…

※「黄檗宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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