境湊(読み)さかいみなと

日本歴史地名大系 「境湊」の解説

境湊
さかいみなと

[現在地名]境港市栄町・大正町など

境村のうち境水道に面した沿岸一帯に発達した港津。境浦・境津などともよばれた。出雲国と国境を接する位置にあり、早くから湊として発達していたとみられるが、史料のうえでは戦国期の六月一〇日付小早川隆景書状(閥閲録)に「境津」とみえるのが早い例であろう。江戸時代初期に遠見番所が設置され、中期以降には西廻海運盛況にともなって鳥取藩の諸施設が設けられて重要性が増加、とくに天保六年(一八三五)鉄山融通会所が設けられてからは伯耆では米子湊に比肩する湊となり、明治初年にかけて凌駕していった。当湊は岸近くまで海が深く、「旬気ニ不拘百石積より千石積迄之船百艘位」は船繋でき(安政六年「諸品取調書」県立博物館蔵)、「眼目他国船入津之場所ニて、陸商人共入込、諸売買ひ取組之便利宜敷場所」であった(文久二年「市立願書」在方諸事控)。当地の俗謡さんこ節の一節に「さても美事や境の港、東の入口御台場で、西は御為替御蔵なり、千石船でも横附けに、伝馬いらずの良港」と歌われる。御台場は文久三年(一八六三)隣接する上道あがりみちはなに築かれた藩最大の御台場をさし、御為替御蔵は鉄山融通会所のこと。

港津機能に対する課役は、宝暦五年(一七五五)には境浦帆役請運上銀一五〇匁、外江・境両浦塩請運上銀一〇〇匁(天明二年に二〇匁増)、境浦諸口銭請運上銀六〇〇匁(寛政二年二〇〇匁増、文化三年四〇〇匁増、文政三年二〇〇匁増、計一貫四〇〇匁)があり(御船手御定)、安政六年(一八五九)には浦役・船運上・帆役・雑物出入津運上・油粕出入津運上・古手類出津運上・木綿出津運上などが課せられていた(→境村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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