日本海沿岸の港から出帆して西に向かい,関門海峡,瀬戸内海を経て大坂に至り,さらに紀伊半島を迂回して遠州灘を通過し江戸に至る海運をいい,東廻海運に対する。近世初期までは北国各地から上方に送る廻漕物資は越前国敦賀または小浜(おばま)で陸揚げし,陸路と琵琶湖上を大津に運び,ふたたび陸運で京都方面に送っていた。ところが,大坂が商業都市として発展してくると,しだいに日本海側から海路による輸送が行われるようになった。その開始時期は,山陰の鳥取藩が米1万5000石を廻漕したのが1638年(寛永15),北陸の加賀藩が米100石を運んだのがその翌年,越後諸藩も明暦期(1655-58)には開始している。さらに59年(万治2)から幕府は出羽国幕領米の江戸廻漕を江戸商人正木半左衛門らに請け負わせている。このように西廻海運は事実上開拓されていたのであるが,それが安定した海運として確立するのは72年(寛文12)の江戸商人河村瑞賢による海運刷新によってである。
幕府より出羽国幕領米の江戸廻漕を命ぜられた瑞賢は,江戸に距離的に近い東廻りより航海の安全度の高い西廻りを採り,航路沿いを現地踏査あるいは人を遣わし,海路の利害,島嶼の危険,港湾の便をくわしく調査したうえで江戸廻米(かいまい)の計画を立てた。すなわち,(1)廻漕船は北国海運に慣れた讃岐の塩飽(しあく)島,備前の日比浦,摂津の伝法・河辺・脇浜などの廻船を用うべきこと。(2)最上川川船の運賃はいっさい幕府の負担とし,上流船の運漕独占をやめ下流船にも運漕させる。酒田港に幕領米専用の米蔵を設け,廻船に積み込むまでの費用も幕府が支弁する。(3)廻漕船には〈官幟〉をたてさせ,寄港地の入港税を免除させ,岩礁で危険な下関港には水先案内船を備え,志摩の鳥羽港口の菅島には毎夜烽火を上げ,廻船の目標とする。(4)寄港地は,佐渡の小木(おぎ),能登の福浦(ふくら),但馬の柴山,石見の温泉津(ゆのつ),長門の下関,摂津の大坂,紀伊の大島,伊勢の方座,志摩の安乗(あのり),伊豆の下田とし,各地に番所を設け,手代をおき,さらに沿道の諸侯・代官にも城米船の保護にあたらせる。以上の方針で江戸廻米を実施することとした。直ちに酒田に米蔵をつくり,瑞賢も酒田に下り廻米の指揮に当たった結果,なんらの海難事故もなく江戸廻米を完了したという。この廻米方式は海上輸送の安全性ばかりでなく,幕府直営による廻米により経費を大幅に削減する方式でもあった。
以後の西廻りによる幕府米の江戸および大坂廻米はこの方式を基本として行われるようになった。航路の安全性の確認は藩米・商人荷の西廻り輸送を増大させ,享保(1716-36)ごろには敦賀・小浜荷揚げによる上方輸送はまったく衰えた。弁才船を主とする上方船・西国船の日本海進出が著しくなり,西廻り航路は蝦夷地まで延びた。これに,江戸時代中期より大坂・蝦夷地間を航海し,海産物その他を買積する北前船(きたまえぶね)が加わり,明治初期まで活発な海運の展開がみられたのである。
執筆者:渡辺 信夫
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西廻航路ともいい、東北・北陸地方から日本海を通って下関(しものせき)を廻り、瀬戸内を経て大坂に達する航路をさす。江戸時代に、幕藩経済を支える重要な経済動脈としての役割を担った。当初は幕府の御城米、諸藩の蔵米(くらまい)を廻送(かいそう)するために開かれ、寛永(かんえい)年間(1624~44)に加賀藩による大坂廻(かい)米が試みられた。それまで加賀(石川県)以北の物資を上方(かみがた)へ運送するには、まず海路敦賀(つるが)・小浜(おばま)(福井県)に運び、それから陸路を琵琶(びわ)湖北岸の塩津(しおつ)、海津(かいづ)、今津(いまづ)(滋賀県)に駄送し、そこから湖上運送で大津に達し、さらに陸路京都ないし大坂まで運ばれた。しかしこのコースでは、積み換えに手数がかかり、運賃も高く、荷物の損失も多いため、一貫して海路による海運航路の開発が望まれた。1672年(寛文12)、出羽(でわ)直轄領の御城米の廻送にあたり、幕府は河村瑞賢(ずいけん)を起用して、西廻海運による江戸廻送に成功した。以後この航路は、東廻航路に比べて風待ちの寄港地に恵まれて航海安全であり、かつ大坂の繁栄とも相まって、大いに発展していったのである。
[柚木 学]
『柚木学著『近世海運史の研究』(1979・法政大学出版局)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本海側の出羽国酒田を起点に北陸沖・山陰沖をへて下関から瀬戸内海に入り,大坂から紀伊半島を迂回して江戸に至る航路による海運。近世,日本海側の諸藩は下関をへて直接大坂に廻米を輸送するルートを開拓しつつあったが,1671年(寛文11)幕府は河村瑞賢に命じてこれを整備させた。瑞賢は瀬戸内の塩飽(しわく)廻船や日比・伝法・脇浜の廻船を雇い,寄港地として佐渡国小木,能登国福良,但馬国柴山,石見国温泉津(ゆのつ),長門国下関,摂津国大坂,紀伊国大島,伊勢国方座,志摩国安乗,伊豆国下田を指定。酒田を含め手代を派遣して廻船の援助と監視にあたらせた。これにより従来の敦賀―琵琶湖―水運―大津―京―大坂という輸送ルートにかわる大坂と北陸・蝦夷地を結ぶ西廻海運が確立し,「天下の台所」大坂を支える役割をはたした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…河村瑞賢の東廻・西廻両航路の刷新事業について記した基本的文献。新井白石著。1巻。水陸交通の重要性を述べた後,瑞賢が1670年(寛文10)奥州信夫郡の幕領米数万石,つづいて72年羽州村山郡の幕領米を江戸に直漕するよう命ぜられ,彼が現地踏査を経て提出した建議によって無事江戸に回漕した事情およびそれに伴う東廻・西廻両航路の刷新について記している。《新井白石全集》《日本経済大典》などに収録。【渡辺 信夫】…
…19世紀初頭には浜坂で中国山地の砂鉄をつかった縫針の製造が始められ,京・大坂に売り出す針問屋が生まれている。 西廻海運は古く寛永期(1624‐44)から盛んとなり,幕府も72年(寛文12)河村瑞軒を起用して東北の直領米を大坂回りで江戸へ回漕する西廻航路を開いた。東北・北陸諸藩の蔵米などが竹野・柴山・諸寄(もろよせ)等を但馬の寄港地として,西回りで大坂・江戸へと回漕された。…
…日本海沿岸の港を出帆し,津軽海峡を経て太平洋に出て本州沿いを南下し,房総半島を迂回して江戸に至る海運のことで,西廻海運に対する。東北地方の太平洋沿岸から江戸方面への海上輸送は江戸開府以後に始まる。…
※「西廻海運」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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