商品を売って回る荷船の称で、「廻船」の語は鎌倉初期1206年(建永1)の文書に初めてみえる。商業がようやく盛んとなった鎌倉時代に、全国的な商品流通に応ずるため商品の海上輸送に従事する廻船が現れ、南北朝を経て室町時代になると、問丸(といまる)の発達とともにその活動はますます活発となり、海運は大いに隆盛となった。江戸時代になると、経営形態のいかんを問わず、貨物を輸送する海船を総称して廻船とよぶようになり、御座船や川船などとも区別した。普通200石積み以上の大型廻船を東廻(ひがしまわり)海運や西廻海運などの大廻(おおまわ)しに用い、それ以下を近距離航路の小廻し船とした。大型廻船はいわゆる千石船であるが、正式には弁才船(べんざいぶね/べざいせん)とかベザイ造りとよばれる、和船の代表的船型のものをさす。もともと日本の船は、おもに櫓(ろ)を漕(こ)いで進み、条件がよければ帆走する、というのが航法の原則であった。江戸前期も、まだ伊勢(いせ)船、二成(ふたなり)船、北国(ほっこく)船、羽賀瀬(はがせ)船などのローカルな大型廻船が主力をなし、いずれも帆走の比重を高めていたとはいえ、風の悪いときの櫓走は必須(ひっす)のものであった。したがって漕ぎ手としての水主(かこ)を多数必要とし、1000石積みで20人から25人くらいを乗り組ませていた。しかし17世紀末ごろから瀬戸内海で発達してきた弁才船が、帆走専用の荷船として広く用いられるようになり、これらローカル船をしだいに駆逐していった。弁才船は、1000石積みで水主15人前後にまで省力化でき、江戸後期には横風や逆風時の帆走技術も上達して、航海速力を著しく向上させた。江戸―大坂間を頻繁に往復した菱垣(ひがき)廻船や樽(たる)廻船、また北海道と大坂との間を往来した北前船(きたまえぶね)などは、その代表的なものであった。菱垣廻船や樽廻船は、300石積みの廻船から出発し、当初江戸―大坂間を平均30日くらい要したが、幕末期には1500石積みから1800石積みにまで大型化し、その所要日数も平均12~13日、順風のときは3、4日にまでスピードアップした。しかもその稼働率も、年平均4往復から8往復にまで倍増して、江戸―大坂間の商品流通量を増大させた。
廻船の経営形態については、運賃積みと買い積みとがあり、菱垣廻船、樽廻船、御城米積船などは前者を、北前船などは後者を代表した。明治以後は汽船に圧倒されて、東京―大阪間の菱垣廻船や樽廻船は明治10年以後しだいにその姿を消していったが、日本海、瀬戸内海を往来した北前船は明治30~40年まで活躍した。
[柚木 学]
『須藤利一編著『船』(1968・法政大学出版局)』▽『豊田武・児玉幸多編『交通史』(1970・山川出版社)』
中世以降見られる用語で,おそらく各地を回遊する船,各地を移動する船などの意味で,当時比較的動きの少ない漁船等を除く輸送船をさし,とくに商品を積んだ商船を意味する場合が多いようである。廻船の初見は今のところ,鎌倉初期の1206年(建永1)で,当時和泉大鳥郷高石正里浦にまれに廻船の商人が来着するとあり,この場合の廻船は,商人と関係深い商船を指している。さらに1340年(興国1・暦応3),足利尊氏は,兵粮料足として,西国運送船ならびに廻船より櫓別100文ずつの関税を兵庫において徴しているが,この廻船もまた運送船に対する商船と解される。じっさいこの関税に抗議して,諸国諸廻船人が連署で嘆願しているが,この諸廻船人は別に〈彼商人〉と記されているのである。さらにその後1414年(応永21),大工丹治念性が,肥後玉名郡大野別府中村にある薬師如来等の修理料として,同所に往返する廻船の鉄物(鉄製品)を徴収して寄進すると述べている。九州で鉄類を荘園の年貢等とする例は見られないから,この鉄物は商品と見られる。
以上によれば,廻船には商人が乗り組み,積荷は商品であり,したがって廻船は商船と解される。しかし,中世の廻船には商船に限らず,より広義の用例もあり,室町初期成立の《庭訓往来》は,廻船および廻船人を,広く商品を含んだ運送船およびその船乗りの意に用いているようであるが,この用例はほかにも散見される。さらにその後,戦国時代の大内氏の掟書には,廻船・商売船と併記したものもあり,この場合の廻船は商売船とは別個のようである。以上のように中世において,廻船は必ずしも商船のみとは判定しがたいが,荘園の衰退に伴い,年貢船が減り各所を回遊する船といえば,商船が主となるから,とくに中世後期には廻船の大半は商船であるといえよう。その用例が,近世の菱垣(ひがき)廻船,樽廻船等の商船に残ったといえる。
執筆者:新城 常三
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鎌倉時代以降,各地で商品を売りまわる荷船。商船(あきないぶね)・荷船も同義。近世以降は,経営形態を問わず商品を輸送する海船一般を称した。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船が江戸―大坂間の廻漕に活躍する一方,江戸幕府や藩などの雇船を中心に海運機構が整備された。これらは運賃積だが,江戸中・後期には,雇船体制から独立し成長した中小の廻船業者による買積船の活動が活発化した。化政期に全盛を迎えるが,その代表が北前船(きたまえぶね)である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…江戸時代に全国津々浦々に発達した廻船。江戸と大坂との間の海運に従事した〈菱垣廻船〉と〈樽廻船〉,日本海方面から津軽海峡を経て江戸に至る〈東廻海運〉,おなじく日本海方面から下関海峡を経て大坂に至る〈西廻海運〉のように基幹航路に就航した廻船に対して,浦廻船は,地方の産物を城下町や江戸・大坂のような大市場に運ぶとともに,そこに集まった物資を逆に地方に配給していくうえで重要な役割を果たした。…
…海損の有無は運不運であったから,運まかせの運送契約から生まれた慣行である。そして江戸時代にも廻船が公儀および武家荷物を運送する場合に慣行とされ,また町人荷物と積合にする場合にも適用され,船主対武家は単独海損,船主対町人は共同海損として処理することを原則とした。共同海損は,中世は配当といい,14世紀初めの南北朝ころにはすでに行われ,中世後半からは《廻船式目》や海路諸法度にも,その方法に関する条文が見え,民間商船において慣行とされていた。…
…近世になると経済圏が全国的に拡大し,流通物資の大半がもっぱら船舶運送にゆだねられ,海上交通量がきわめて多くなった。廻船と呼ばれた日本型船(和船)は,幕府法に造船法規がないにもかかわらず,近世初期の型が墨守され,改善されることがなく,一本帆柱の横帆,横流れを防ぐ効果はあるが吊上げ式の巨大な梶(かじ)は,逆風時難航を余儀なくされ,梶の破損が多かった。船倉は船体の中央前半を占めたが,船底から積上げ式であり,甲板がないため,高波が打ち込み濡れ荷になりやすく,さらに水船となり,沈没の危険が多かった。…
…種々の貨物を海上輸送する船のこと。限られた小地域内を輸送航行する地船,地乗りと,広域を搬送する廻船,渡海船,あるいは沖乗りの区別がある。地船には,それぞれ活動する地域の名称を冠したものが多いが,なかでも尼崎船,明石船,丹後船,若狭船,尾道船,筑前船,神崎船などが有名である。…
…江戸時代から明治前半にかけて,全国の廻(回)船の寄港地にあった乗組員の宿屋のこと。当時の回船は港ごとに船宿が決まっていた。…
※「廻船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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