増井村(読み)ましいむら

日本歴史地名大系 「増井村」の解説

増井村
ましいむら

[現在地名]常北町増井

藤井ふじい川の北に位置し、西は磯野いその下青山しもあおやま二村。村の北部を西田にしだ川が北西から南東に流れる。村内の大部分は標高四五メートル前後の平地をなす。

康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)には「乙王丸分(中略)那珂西益井村御梅局一期の後知行すへき也」と益井村と記され、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「ましい」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「増井村」とみえる。「水府志料」によると、村の東西二五町・南北二二町、戸数およそ九四、「村名旧増威、或は益井、舛井に作る。本郷坪に益井と云へる井あり。大旱にも水尽る事なし。村是によつて名付たり。

増井村
ましいむら

[現在地名]茂木町増井

槻木つきのき村の東、さか川の左岸に位置する。中世には茂木保を構成する一村で、康永四年(一三四五)一〇月二日の藤原某等連署書下契状案(茂木文書)によれば、藤原某らは「東茂木保七ケ村(内カ)増井村地頭職」を某二年一二月に「去進」し、今後当村を競望しないことを約束している。以後増井村は茂木氏領として安定したと思われ、文和二年(一三五三)から応永一一年(一四〇四)まで歴代の茂木氏に伝領された(文和二年六月一〇日「明阿茂木知貞譲状写」同文書など)

増井村
ましいむら

[現在地名]常陸太田市増井町

増井川(源氏川)の沖積地にあり、北は大門おおかど村。康安二年(一三六二)正月七日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)には、勝楽しようらく寺塔頭の正法しようぼう院領として「益井枕石屋敷」、正宗しようじゆう庵領として「益井屋敷」と記され、益井は増井のことと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報