増永村(読み)ますながむら

日本歴史地名大系 「増永村」の解説

増永村
ますながむら

[現在地名]荒尾市増永

西は有明海、東部をうら川が南流し、東は川登かわのぼり村、南は一部いちぶ村、北は荒尾村に接する。中世野原のばら庄西郷増(益)永名としてみえ、康永三年(一三四四)三月二〇日の沙弥龍造寺上円譲状(龍造寺文書)によると、上円は重代相伝の所領として「増永内田畠屋敷等」を孫子の又四郎家平に譲り、家平は貞和七年(一三五一)一月に「益永名内田畠屋敷地頭職」の安堵を請い(「龍造寺家平申状案」同文書)、同七日に足利直冬の安堵状(同文書)を得ている。一方、宝治元年(一二四七)野原庄地頭職を得た小代重俊は文永八年(一二七一)九月一三日の関東御教書(小代文書)で肥後下向を命ぜられ、「事蹟通考」所収の小代系図には重俊の子政平が「野原荘増永村」を領し増永七郎を称したとあり、孫次郎隆平は貞和六年一一月九日に「益永名内迫村内地頭職」を足利直冬下文(小代文書)で安堵されている。


増永村
ますながむら

[現在地名]広川川上かわかみ

久泉ひさいずみ村の南に位置し、広川が西流する。天正一二年(一五八四)三月一三日の稲員安守知行坪付(歴世古文書/大日本史料一一―一二)によれば、安守は「五町 増永」など累代の知行地計七〇町の安堵を大友義統に求めている。文禄二年(一五九三)安守の所領であった当地五町などが高良こうら(現久留米市)領として報告されている(同年三月一八日「高良山知行所指出」稲員家文書)

本高一〇三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一八〇石余・役高二二五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳に高二二五石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町六反余・開田一町九反余・畑田一町八反余・畑五町四反余・居屋敷二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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