荒尾村(読み)あらおむら

日本歴史地名大系 「荒尾村」の解説

荒尾村
あらおむら

[現在地名]荒尾市荒尾

西は有明海に面し、うら川上流を挟んで東の屋形やかた山低丘陵と西の増永ますなが台地よりなり、東は下井手しもいで村・井手村川登かわのぼり村、南は増永村、北は宮内くない村・宮内出目くないでめ村に接する。康暦元年(一三七九)六月一日の詫磨寂祐譲状(詫摩文書)に「野原のさいかう(西郷)とミまろ名内、あ(ら)をの田畠屋敷等」とあり、寂祐は重代相伝の本領の当村などを詫磨西八郎より悔返して満親に譲っている。応永八年(一四〇一)一〇月日の詫磨満親本領所々注文(同文書)に「野原庄内荒尾号同丸名」とみえ、同年一一月一二日に九州探題渋川満頼の安堵状(同文書)を得、同一四年の神倉庄・鹿子木東庄等名々注文(同文書)にも「野原庄内荒尾号同丸名」があり、同一六年一二月二〇日に満親の譲状に任せ子の親家が跡を領掌することを認めた九州探題渋川満頼安堵状(同文書)が出されているので、当村も親家に譲られたと推定される。一方、「事蹟通考」所載の小代系図の泰経の項に「領野原庄荒尾村」とある。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると野原のばら八幡宮大祭の小行事を勤めた三ヵ村の一つで、文永三年(一二六六)の項の「御放生会大(司脱カ)同丸乙太郎」、元亨元年(一三二一)の項の「小行事同丸名乙王次郎」、明徳三年(一三九二)の項の「宮方大行事あらをおこもり」など当村住人の名が多数みえる。


荒尾村
あらおむら

[現在地名]大垣市荒尾町・荒尾玉池あらおたまいけ古知丸こちまる木呂町きろちよう

杭瀬くいせ右岸大谷おおたに川左岸、静里しずさと輪中の北西部に位置し、東は笠毛かさけ村。枝郷喜呂がある(明治大学刑事博物館本元禄郷帳)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に国衙領として「荒尾郷」がみえる。その後、天正一四年(一五八六)九月二一日には荒尾村二九二貫文の地は那波和泉守の知行地となる(「豊臣秀吉朱印知行目録写」名和文書)。同一九年閏一月一六日には徳永寿昌に加増分として荒尾村八一五石余が扶助されており(「豊臣秀吉知行充行朱印状」田中興一氏所蔵文書)、のち高須藩領となる。


荒尾村
あらおむら

[現在地名]豊後高田市荒尾

都甲とごう川の右岸、払田はらいだ村の東に位置する。建暦二年(一二一二)一一月日の都甲庄弁済使八多某宛文案(都甲文書)によると、相伝下作人丹治光貞に都甲庄弁分べんぶの地を下作させているが、下作田畠のうち屋敷畠一所として「荒宇」とみえる。その後弁済使阿賂により荒宇田畠は他人に宛作されていたが、建保二年(一二一四)六月預所大法師某は元のとおり光貞に宛行うよう都甲庄沙汰人に命じている(「都甲庄預所大法師某下文案」同文書)。弘安四年(一二八一)四月一〇日の大神惟親所領譲状(同文書)によると、惟親は都甲庄半分地頭職等を嫡子大神惟遠に譲り渡しているが、「但あらをのちきかさこハ、亀房にたふへし」とある。


荒尾村
あらおむら

[現在地名]熊本市荒尾町・野口のぐち

白川左岸の低地に位置し、東は島新しましん村・しま村・いま村、南は今村・池畑いけはた村に接する。正安元年(一二九九)六月日の橘政能三郎丸田畠在家注進状(藤崎八幡宮文書)に「畠地 弐反荒尾」とみえ、藤崎ふじさき宮の神官政能は、当村にある三郎丸名内の畠地二反を氏人以外の長右衛門入道へ売却した。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方四八町二反余・畠方二八町四反余、分米七九二石余とある。同一二年の検地帳では田方六二町余・畠方三六町五反余、分米一千八七石一斗余で、竈数四八・家数六三、男七六・女六四、馬一・牛一九を記載する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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